ひこうき雲
2.子会社
50歳を前にして一気に白髪が増えてきた髪も最近気にならなくなってきた。
それでも鏡を前にすると、急に老けたように感じてしまうのは毎度のことだ。
ハゲるよりはマシだ。
嫌味なくらいに肌の濃淡まで綺麗に映る鏡の中の自分を励ます。新しい設計棟のトイレは居心地がいいくらい清潔だが、天井まである無駄に大きな鏡は、照明の輝度の関係もあり映る者を新型テレビの画像のように鮮明に反射する。旧設計棟の古くて汚く狭いトイレとは雲泥の差だ。
パッと一瞬目の前が真っ暗になる。何事か?と振り向来始めた瞬間、薄い金属片が触れるような小さな音がして一瞬で明るさを取り戻す。振り向こうとした動作を人感センサーが目ざとく検出し照明へ電源を供給するリレーを動作させたのだとすぐに気づく。その仕組みは長年電気関係の設計をしてきたので考えるまでもなく思い当たるが、いきなり照明を消されるとビックリする。
人感センサーというよりは動作センサーだな、「人感」を名乗るからには、例え動かなくてもそこに人がいるならちゃんと検知しろよな。まったく。
それを誤動作なく実現することの難しさを知ってはいるが、急に暗くなって驚いたのと、部長に呼び出されていることへの不満で、つい悪態をついてしまう。
部長とは言っても普段は絡んでも来ない「ウチの会社」の部長だ。
ったく。この忙しい時に、どうせ従うしかないんだろうに。
舌打ちをしてから慌てて周囲に顔を巡らてから苦笑する。誰も居ないのは分かっていながら癖でそうしてしまう自分のちっぽけさに毎度のことながら嫌気が差す。
だったら最初から舌打ちなんかしなきゃいいんだ。
息子にだったらそう説教してしまう場面だ。
心の奥から静かに盛り上がってくる自己嫌悪を振り払うかのように洗った手を大袈裟に振って水を切った。
歩き出そうとすると一瞬貧血のように血の気が引く感じがして、踏み出そうとした足を止める。もっとも、どちらかというと筋肉質な体形せ貧血とは縁もゆかりもない体質だったので、本当の貧血がどんなものかは分からないので憶測だ。貧血というよりは疲れているだけなのかもしれない。
立ち止まったことで通常を取り戻した体を確認するかのように深くゆっくりと呼吸をしてから今度こそトイレを出た。
部長である冨川菊男のいる階下へはトイレの隣の非常階段を使う。健康のためではなく、フロアの中央にあるエレベーターホールへ向かうのが億劫なだけだった。同僚に会ってトイレが長かったと思われるのも嫌だった。
自分よりも遥かに若い同僚たちは、年寄りの腹の具合を心配するよりも冷やかしのネタにする事で日頃の俺へのストレスを解消するだろう。
今朝は便秘だったのに、急激な腹痛でトイレに行くと下痢だった。戦国時代なら人生50年だ。調子が悪くなるのも致し方ないか。
よろけるように降り立った階段から金網の入った分厚い磨りガラスの向こうに人影がいないことを確認して耐火扉を兼ねている鉄の重い扉に手を掛ける。
小判鮫がっ
磨りガラスに領有権を主張するように貼られた「みなとエンジニアリング株式会社」の文字を睨む。数多(あまた)ある会社の中からこの会社を選んだ若き日の自分の価値観は完全に蚊帳の外だ。
新しい扉は軋む事もなく静かに社員を迎え入れた。
落ち着けよ。
自分に言い聞かせて周りに気づかれないように深呼吸する。
あちこちで内線電話が響く。受話器に耳を当てながら話す30代前半の女性社員と目が合い軽く逸らされる。男ばかりのこの会社では人気のある方なのを過剰に自覚しているらしく、50絡みで何の権力もない男への扱いは今日も冷たい。
-だから何人付き合ったって結婚できないんだ。男ってのはそれほど馬鹿じゃない。街に出ればあんたは贔屓目に見ても普通レベルだ。もっと心を磨け-
内心で呟く、入ったばかりは素直ないい子だったのに、と付け加えることで憂さ晴らしではないと自分に言い訳する。
パソコンを打つ手を休めてこちらに会釈する中年社員の同情の眼差しには笑顔で答える。昔、部下だった男だ。部長に呼び出された理由を知っているらしい。彼には、この笑顔が作り笑いなのはバレバレだろう。そういえば、しばらく飲みに行ってないな。
-昔は良かった。-
元部下の背中を軽く叩いて、頷いてみせる。そう、コイツと開発をしていた頃が懐かしい。
-俺は大丈夫だ。そう、俺は大丈夫だ。-
元部下に伝えるつもりが、自分へ向けた言葉になっている。
若い連中は、儀礼的に挨拶の声を出すだけだ。ヒドい奴になると背中を向けたままパソコンの画面に挨拶している。
-ま、そんなもんだろう。鳥井も大変だな。-
若手への躾(しつけ)が行き届いてないことで元部下を責めるよりも、今の若者が相手であることに同情する。少なくとも挨拶をしようとするだけマシだ。
鳥井のアレンジ設計チームのデスクの列を抜けると、鳥井たち設計者の机の倍は幅のある机がこちら側へ向かって鎮座している。
その主は、マウスだけを操ってパソコンをじっと見ている。キーボードに添えてもいない手から、ネットサーフィン中であることが窺える。部下たちはどう見ているだろうか。。。
決済の書類を山積みにしてネットで暇つぶししているのなら、さっさとハンコを押してくれ。若き日の俺なら言うだろうな。
「部長。」
呼びつけておいて、目の前に立っても、パソコンから目を上げない相手を見下ろす。
「おっ。柿崎君。」
部長、と職位を呼ばせるまで気付かない振りだ。職位で呼ばれたくて仕方がないこの男の権力への執着には、相変わらず呆れさせられる。
日滝製作所が課長をしていたこの男を、子会社の「みなとエンジニアリング」に押しつけた。という噂を本人は真面目に気付いていないらしい。製品知識だけでなく、未だに部下の業務内容さえ把握していない。と、喫煙所を通りかかる鳥井から何度も聞いていた。
「部長がお呼びと伺いましたので。御用件はなんでしょうか。」
もう一度「部長」と言ってみる。今度は恭(うやうや)しく。きっと心の中で感涙しているに違いない。
「ちょっとこっちへ。」
七三に分けた真っ白な髪を太く短い指で撫でつけると、ゆっくりと立ち上がって太くて低い体の向きを億劫そうに変えると、柿崎とは目も合わせずにデスクの隣のクリーム色の扉を開けて中へ入る。
続けて入った柿崎は、見た目よりも動きの軽い鉄の扉をゆっくりと閉める。パーテションの進化系のような上下に隙間の空いたクリーム色の鉄の板で囲った会議室。普通の扉だと思って閉めると、フロアじゅうの人間を一斉に振り向かせる程度の音は出る。
「急な話だが、、、」
扉を閉め終えると、すでに座っていた部長が、口を開く。こちらの状況にはお構いなしだ。部下はどんな状況でも自分の言うことに最優先に耳を傾ける。それをあえて試すことで部長という職位を再認識しすることで自分に酔い、そして安心している。
-見え見えだ。だが、俺は自分がお前の部下だと思ったことは一度もない。-
口に出して言えない分、椅子に座るまで無言で通す。
「何でしょう?」
座った背筋を伸ばし、自分の体制を整えてから部長の言葉に反応する。
-おっ、ちょっと赤味が差したたな。-