尖閣~防人の末裔たち
8.玄人の海
「巡視船3隻が本船団に向かい接近中。距離7海里(約13km)」
見張り員の報告に河田は、
「やっと来たか。」
と呟くと、傍らの古川に日焼けした顔を向け、
「海上保安庁のお出ましです。ここからがスタートです。」
と白い歯を見せて微笑んだ。
古川は、カメラのバッテリーを液晶ディスプレーで確認してから
「はい。よろしくお願いします。」
と、かしこまって答えた。
「いえいえ、こちらこそ。そのカメラと、そして古川さんの目にこれから起こるであろう光景をしっかりと焼き付けてください。」
河田は諭すように言った。その表情からは、もう白い歯も微笑みも消え失せていた。
「こちら「やはぎ」、河田だ、全艦針路そのまま。輪形陣をX隊形に変更。」
とヘッドセットのマイクを口元に添えてキビキビとした口調で吹き込んだ。
「こちら「ふゆづき」了解。針路維持、輪形陣Xに変更。」
2番船「ふゆづき」のそれに続いて、3番船「すずつき」4番船「かすみ」5番船「ゆきかぜ」と順に復唱が帰ってきた。いずれも緊張と期待に声が弾んでいた。
それとほぼ同時に、「やはぎ」を中心に十字状の隊形を組んでいた船団は、「やはぎ」の前の先頭を航行していた「ふゆづき」が「やはぎ」の左前方に、左隣を航行していた「すずつき」が減速して左後方に。そして「やはぎ」の右隣を航行していた「かすみ」は新たな濃い黒煙の塊を煙突から噴き出しながら加速して、「やはぎ」の右前方に出た。最後に「ゆきかぜ」が「やはぎ」の真後ろから右後方に滑るように移動した。陣形は瞬く間に変更を完了した。
河田は、いつの間にか左手にストップウォッチを持ち、何やら手帳に書き込んでいた。
怪訝そうに見つめる古川に気付くと、
「あ、これですか?この行動にどれくらい時間が掛かるかを記録しているんですよ。今後のためにもね。」
と言い、手帳を閉じてポケットに仕舞った。
「見事な艦隊運動ですね。それでも時間をチェックしてるんですか?」
古川は、河田が彼の漁船達を船よりも艦と読んでいることに気遣ってあえて船団運動と言わず艦隊運動と言ってみた。
そのニュアンスの変化に気付いたのか、それともその質問が気に入ったのか、河田は白い歯を少しだけ見せた独特の微笑みを返した。そして
「いつも航海してる訳じゃないですから、こうして掛かった時間をチェックしておけば、何が悪化したか前回と比較すればすぐに判るんですよ。だから悪化したものを練習すればいい。ということで、効率よく技量維持ができるんです。」
と答えた。
「え、でもそれだと、技量は維持できても上達は出来ないんじゃないでしょうか?」
古川は、ストレートに疑問をぶつけた。
すると河田は、顔の前で軽く右手を左右に振りながら
「いえいえ、経験者を集めているのでそもそも技量は高いんです。その技術が腐るのが怖いんですよね。どんな技術でもそうですけど。」
そこには部下に全幅の信頼を置いている上官の顔が見てとれた。
「なるほど、それは言えてますね。」
古川は、よくもそんな人間がここに集まったものだと不審に思いつつも相づちをうった。
「漁船団が隊形を変更中。」
巡視船隊が針路を変更し、漁船団と向き合う形で航行し始めた矢先の見張員の報告に、兼子は双眼鏡を覗いた。真正面の洋上にピントを合わせると5隻の漁船団の内、前方の3隻が視野一杯に広がった。それらは狭い双眼鏡の視界から外に出ることなく最小限の動きで隊形の変更を終えた。
「む~、」
兼子は思わず唸り声を漏らしてしまった。
それを聞いた副長も
「見事ですね~。」
と感嘆の声を挙げていた。
兼子はその声に頷きながらも、さらに双眼鏡を目から離さなかった。
何分過ぎただろうか、双眼鏡から目を離した兼子は、大きな溜め息で船橋の誰もが長く思えた沈黙を破った。
「あの陣形を見てみろ。取り付くシマがない」
陣形は1隻を中心に置き、進行方向に対して十字形だったものからX形に代わっていた。このような陣形をとられてしまっては、1隻の対象を2隻の船で挟むことが出来ない。そのうえ船団全体を囲もうにもひと回り大きく囲まなければならないため、より多くの船が必要となってしまう。今この海域にいる兼子率いる巡視船は3隻のみ。この陣形に対しては囲いが穴だらけになってしまうのは明らかだった。
兼子は組んだ両腕の右腕だけを起こして右手で自分の顎をさすりながらしばし考えていたが、腕を下ろすと、
「ん~。副長。配置についてはまず両脇に2隻。横軸としては、中心の船の真横、縦軸としては漁船団の外側の船のさらに外側だ。そこに貼り付けておいて、中国船が近付いてきたら速度を変化させて漁船団の中心に対して前後に動く。範囲は外郭前後の2隻の範囲だ。そして本船は、真後ろに付ける。横軸としては、漁船団外郭最後尾のさらに後ろ縦軸としては中心の船の真後ろ、縦軸としては漁船団の外側の船のさらに外側だ。中国船が近付いてきたら左右に蛇行して接近の意図を挫折させる。蛇行の範囲は外郭左右のの2隻の範囲だ。どうだ?」
と一気にまくし立てた。
頷きながら聞いていた副長は、
「なるほど、それなら中国船も迂闊に近付いてはこれませんね。漁船団は100トンクラスですし、密集した陣形を組んでいるので、中国船が近付いた際の運動では、こちらの移動範囲も少なくて済むでしょう。」
と答えた。
「おぉ、確かに移動範囲は少なくてすむな。」
兼子は確認するように答えると。無線で僚船の「いしがき」、「よなくに」に作戦を説明した。
「いしがき」の船長は、「それしかないでしょう。でも船酔いが出そうですな、今のうちに袋でも配っておきましょう。」と大声で笑っていた。一緒に笑い声を挙げた兼子は不安な気持ちが解消されると共に自信が沸いてくるのを感じていた。無線を聞いていた各船の乗組員も同じことを感じたに違いない。流石は退職を間近に控えたベテラン艦長だけのことはある。ありがとうございます。兼子は心の中で「いしがき」の船長に感謝言葉を述べた。
作品名:尖閣~防人の末裔たち 作家名:篠塚飛樹