尖閣~防人の末裔たち
タイミングを見計らって緩んだ雰囲気を律するように、倉田が言った。一同に心地よい緊張が走り、ひとつの方向に束ねる。
さすがは護衛艦の艦長を務めた人は違うな。と妙に納得する古川に向かって、倉田が声を掛ける。
「女性は危険ですね。何が起こるか分からない。」
その言葉に、悦子が倉田を睨んだように古川には見えた。だが、一緒に行きたい。というその気持ちだけで十分だ。と古川は目が合った悦子に頷くと、その目を見ながら
「悦子。俺は、その格好はすごく好きなんだが、海に出たら強い日差しと風にやられる。今夜俺が泊まろうとして予約したホテルがあるから代わりに使ってくれ。俺に予約してもらったと言えばいい。今タクシーを呼んでやる。」
渋々頷く悦子の目が潤んでいるように見える。何故、悦子がここまで来たのか分かる気がした。
「無事に帰れたら。。。メシでも食いに行こうぜ。その時は、その格好で頼むよ。」
古川がおどけたような笑顔を向けると、悦子は、うん。と静かに答えると。はにかむような笑顔を返した。伏せた目には涙が溢れていた。
よく泣く女になったな。
いろんな苦労をしてきたのかもしれない。こみ上げてくる何かを抑えるように古川は、その肩に手をやると、携帯電話を開いてタクシーを呼んだ。時間は22時を少し回ったところだった。
間もなくやってきたタクシーに悦子を乗せると、男達は船出の準備を始めた。
準備とは言っても、食料や水は、古川が段ボールにごっそり買ってきていたので、海図とコンパス、そして日焼けや風を避けるためのウインドブレーカーを事務所から失敬してすぐに完了した。もちろん2丁のベレッタも持っていく。
船に乗り込むと、エンジンを掛けた倉田が堤防に飛び降りるとテキパキともやいを解く、古川と権田が、そのロープを船に取り込む間に、さっと倉田が船に乗り移った。倉田がデッキに立ち、手慣れた手つきで操作をし始めると同時に低く安定した唸りを響かせていたエンジン音が急に吠え出すと同時に一気に堤防から船が離れていった。
「こりゃあ、立派な乗っ取り犯だな。」
権田の言葉に一同どっと笑い出す。いや、先の見えない大きなヤマにあたる男の心理なのかもしれない。
こういう時は、何を言っても声を張り上げて笑うもんだ。
古川は取材のために初めてゲリラと戦場に入った時にある男が言っていたことを思い出して苦笑した。
月のない真っ暗な海面には5隻のマグロ延縄漁船がその白い船体を墨を流したような闇に紛れるように浮かんでいた。
カリカリと、ラッチが掛かるような乾いた音と、鎖が触れあうような軽い金属音が、海水が船縁(ふなべり)を叩く音に混じる。それ以外は全く何の存在も感じさせない闇の中で、実は気配を殺すことに慣れきった男達が黙々とそれぞれの役割を果たしていた。
ノクトビジョン(暗視装置)を装着した軽い樹脂製のヘルメットの男達。彼らの目には、肉眼では全く気付かない僅かな光を光学的に何百倍にも増幅した景色が広がっている。
それぞれの漁船の船縁にはゴムボートが横付けにされて荷物の積み込みを行っているのが薄緑色に浮かび上がり、クレーン形のチェーンブロックが鎖とラッチによる小気味よい音を立ながら、束ねられた単管パイプをゆっくりとゴムボートに降ろしていくのが映る。別な漁船ではゴムボートに次々と男達が乗り移ると、エンジン付き草刈り機のような軽やかな音と焼けた2サイクルオイルの混ざった臭いを振りまきながら漁船を離れてゆく。ゴムボートが舷側を離れると、またすぐに海面に黒い物体が投げ入れられる。海面に達した物体は、水洗トイレを流した時の音を少し曇らせたような鈍い音と共に一気に膨らみ、一瞬でゴムボートに変化する。
その様子を船橋から眺めていた河田は満足そうに笑みを浮かべたが、ノクトビジョンからはその表情まで読みとることは出来ない。雰囲気でそれを感じた藤田が、相槌を打つように口を開いた。
「実にスムーズですな。まるで水を得た魚です。」
中肉中背の藤田は、元陸上自衛隊で、レンジャー教育の教官を長年務めてきた日本でも屈指の戦闘とサバイバルのスペシャリストといえる男だった。
「さすが君たち陸自上がりが鍛えてくれただけのことはあるよ。」
河田が満足げに頷くのを雰囲気で感じ取った藤田は、謙遜を隠さない礼を述べると、さっと周囲を見渡した藤田は心配そうに付け加えた。
「そろそろ我々も参りましょうか。ところでまだ海保に動きはなさそうですか?」
タブレット端末をさっと確認する河田の横顔が、パッと白く眩む。タブレットバックライトの明かりをノクトビジョンが増幅し過ぎたらしい。
「大丈夫。海保の巡視船は日没から動いていない。別働隊が巡視船の周辺でレーダーを妨害しているから、我々の船の所在は分からないし、こんな新月の真っ暗闇では調子の悪いレーダーでパトロールはしない筈だ。彼らは安全を重んじ過ぎる。海自の護衛艦の方はCICを乗っ取ったから問題ない。行きましょう。」
河田の自信に満ちた答えに藤田は安心するが、この期に及んでも河田が使う「CICを乗っ取る。」という意味がよく分かっていなかった。
今度こそ聞こう。
と思ったが白い飽和に包まれていた河田の横顔が薄緑に戻りタブレットの電源を切った事を告げると、タイミングを失した自分に苦笑しながら、ハシゴを降りる河田に続いた。河田同様腰にぶら下げたホルスターに入ったベレッタの重さが久々に頼もしい自分を感じさせていた。
作品名:尖閣~防人の末裔たち 作家名:篠塚飛樹