かいなに擁かれて 第九章
安宅サロンに挨拶を兼ねて、中間の打ち合わせを済ました魅華は、そのまま家には帰らずに、海浜公園に近い駅で電車を降りた。
改札を出て、砂浜に繋がる階段を下ると海を眺めることができる。
松林と砂浜との間に敷かれた歩道を、海を眺めながら魅華は歩いた。
海水浴客で、賑わうシーズンも過ぎて、海から松林へと吹き抜ける風は、一時のような熱気は無く、陽も、僅か一月足らずの間にもうその猛々しさを無くし、季節が移り変わっていることを感じさせた。
赤い灯台の傍にあるベンチまで歩き、そこに座って魅華は海を見つめた。
やがて陽が傾き、潮が満ち始めると、海岸の西の空は茜色に染まり、遠くに海峡をまたぐ壮大な吊橋が哀愁に満ちたシルエットを映し出した。
シルエットを見つめ、魅華はこれまで自分の歩いてきた人生をソロコンサートで表現する方法を考えた。
これまでの人生を振り返るとき、別の思考が頭の中を支配する。
先月突然納屋に現れた徳寿隆法。
最初の夫であった中津川徹のこと。
そして、榊裕介とその後ろから自分に迫るような女性の叫び。
ワタシは罪深い女なのだろうか……。
ワタシは幸せにはなってはいけない女なのだろうか。
ワタシを過ぎて行った、男たち。
いや、そうじゃない。ワタシが彼らの過ぎて行った女なんだ。
彼らの人生を少なからず脅かしたのは、もしかしたらこのワタシじゃないのだろうか――。
もしも、彼らがワタシと出逢うことが無かったとしたら、彼らの今の人生は、もっと違う人生になっていたのだろう。
そして、ワタシもきっと違った生き方が出来たのではないか。
もしかしたら、ワタシは誰かと寄り添うことなんて出来ない女なのではないのか。出来ないのか、寄り添ってはいけないのか。
正解の無い自問自答をこれまで幾度繰り返してきたことか。
その度に、行き着くところは決まって真っ暗な闇だ。
漆黒の闇の中で、もがけばもがくほど、より深い奈落の闇へと堕ちてゆく。
独りだけで、奈落の闇に堕ちてゆくのならかまわない。
それがワタシの人生で運命だったとしたら受け入れざるを得ない。
だけど、ワタシに係わった男たちが、奈落の闇に生きることになることだけは耐えられない。
隆法さんは、どうして今になって会いに来たのだろう。会いに来るなら、今でなくてもよかったはずなのに。
魅華はとっくに夕陽の沈んだ海岸を近くに引き寄せるように眺めては目を閉じた。
しばらくすると、真っ暗な世界に一条の光が射し込み、天上からは真っ白な柔らかな羽が静かに舞い降りて、ベッドに仰臥する老婦人の姿が描き出されたかと思うと、すうっと音もなく消えて、元の真っ暗な闇の中には、誰も横たわって居ないベッドの傍で涙する隆法の姿が僅かに見えた。
嗚咽する隆法の背に神々しい煌きが一瞬放たれた。
あっ、そうか……。義母さんは、亡くなったんだ。
悲しいことではあるけれど、これでもう、隆法さんの手枷、足枷は解き放たれて、新しい人生を彼は自分の意思に従って歩いていけるんだろう。と魅華は思った。
そして、彼の心の片隅には、未だにまだこの自分の面影を忘れられずにいることを魅華は察知した。
隆法の魅華に対する想いには彼女は感謝したけれど、魅華にはどうしようもなかった。
なぜならば、彼には漆黒の闇の先に描き出された輝く光が煌いているのが魅華には見えたからだ。
その煌きは、自分の煌きではなく別の女性であることを魅華は闇の中に描き出された光で悟った。
これでいいんだ。
もう、生涯、徳寿隆法とは会わないと誓った。
※
閉じた目をゆっくり開けると、激しい頭痛に襲われた。
両方のこめかみを手で押さえ、頭をうな垂れて痛みに堪えていると遠くから微かに声が聴こえた。
『魅華は独りじゃない。オレがずっと傍にいてやるよ。オレだって、すきであの家の息子になった訳じゃないさ。オヤジのせいさ。オフクロはオヤジの元愛人さ。オフクロが生きてたらあんな家にもらわれはしなかったさ。だからオレはあの家を利用してやるのさ。オフクロに代わって復讐してやるんだ』
――徹。最初の夫、中津川徹の――、声だ。
ワタシが身を委ねた初めてのオトコの声だ。
徹。今アナタは、どこで何をしているの?
ワタシはアナタを捨てた女でしょ。
今でもワタシを憎み恨んでいるのでしょうね。
ごめんね、徹。でもね、あの時はああするしか無かったの。
あのままずっと一緒に居たとしたら、もっと悲惨なことになっていたかも知れなかったから。ほんの一瞬の気の迷いであったにしてもワタシはアナタを葬ろうとしたのよ。ごめんね。――徹。
アナタへ向けたワタシの過ちは生涯ワタシの罪として背負ってゆきます。だから、アナタはもう先をゆく時間を見つめて生きていって欲しいの。過去には決してもう戻れない。
自分勝手で強引で、何時も夢だけを追いかけている男だった。
だけどワタシが沈んでいる時には絶妙なタイミングで優しくしてくれた。中津川徹。
今もワタシが、こうやって奈落の闇に堕ちてゆきそうだから、来てくれたんでしょう、徹は。ありがとう。徹。
でもね、もう、アナタはワタシと係わってはダメなのよ。
ワタシは大丈夫。
自分の人生、与えられた自分の運命を受け入れて、その全てをピアノに注ぎ込んで頑張って生きてゆくつもりだから。
激しい頭痛が嘘のように治まった。と、その瞬間。
『あの人には近づかないで! もう二度とあの人の部屋には行かないで! あの人をワタシに返して! お願い! お願いだから……』
慟哭の叫びであった。
叫びは、榊裕介の部屋を訪れる度に魅華に浴びせられるそれだった。
どうして、何故、徹を視ているのに、貴女が徹の中に現れるの?
徹と貴女は関係があるの……。
あっ! 徹! もしかして、今、アナタはその人を繋がっているの……。
魅華が脳裏で視たもの。
その声は、榊裕介の別れた妻であることを魅華は察知した。
このままではダメだ。
彼との関係を続けていてはダメなんだ。
思いもよらぬ、魅華の最初の夫と今のカレである榊裕介の別れた妻との巡り合わせと繋がりに彼女は絶句し肩をうなだれた。
作品名:かいなに擁かれて 第九章 作家名:ヒロ