分かれ道
書いた言葉を読んでみたのだが、なぜか読めなかった。それは心理的ではなく、物理的なものであった。いつもは読めるはずの暗号のように汚い私の文字だが、今日はなぜか読めなかった。青い空の下で白いページに書かれた黒い文字は確かに文字であって、一文字一文字はきちんと認識できており、なぜこの文章を読めないのか、私にもわからなかった。読めないのではなく、理解できない、許容できないという表現のほうがあっているのだろうか。連なった汚い文字は白い紙を汚すだけの汚点であり、私の感情、気持ちを一切表現しないものだった。もしくは、この白い手帳のページが私の感情を跳ね返しているのだろうか。川の音が、私が理解するのを邪魔しているのだろうか。もしくはほかの何かが邪魔しているのだろうか。多くの疑問が連なり、電車のようになっているが、少なくともいつもの私ではないのは間違いなさそうだった。
流れる川に目を移し、私は手帳に書いた文字を頭の中で反芻することで、なんとか理解できないかと試みた。理解できない私の感情を考え続けていると、耳から受動的に入ってくる川の音が騒音のように思えてきた。いつもはこの音を心地よく感じ、私の思考を助けるのだが、今日は正反対の性質を持っているようだ。この騒音を受けながらも、私はこの場所を離れる気はなかった。私がこうやって冷静でいられるのはこの川のおかげであるかもしれないからだ。実にうるさい騒音が時に心を落ち着かせる優しいものに変わることがあることを私は知っていた。そのわずかな希望を信じ、この騒音を我慢することにした。私の耳から伝わった騒音は私の内臓すべてに伝わり、飲みこんだ悲しい涙を振動させる。すでに体のどこかに融合し、姿を隠していた悲しみまでもここにいるよと存在を宣言する。そうして震えた涙は体の内側で沸騰しているかのように暴れだした。暴れだした悲しみを抑えようと両手で耳をふさぐ。きれいとは言えないものの、静かで穏やかな川沿いで両耳をふさぐ私の姿はかなり変わっているものだろう。周りと違うことからくる恥を感じ私の肌が赤く、熱くなるのを感じると、目の前の騒音のもとである川が冷たく、私を誘っているように思える。ゆらゆらと誘う波が手帳までやってきて、私の文字を読めなくしていると思えば、都合がいい。
私はもう用もない手帳を置いて走った。なんとかあの川に飛び込むことはできないだろうか。むこうに線路が見え、そこを走る黄色い電車は私が降りたものの何個後の物なのだろうか。同じような箱に違うものが詰められて走る。狂気だ。
その点、私が走っているこの川は実に気持ちいい。どんなに速く走ってもゆっくりと流れる川。上がる心拍数には干渉されないこの流れに飛び込みたい。飛び込みたい理由などすぐに移り変わった。これももう少しすれば消え、また別に理由がやってくる。だが、川に飛び込みたいという願望は変わることはないだろうと確信していた。そこに理由はない。
走る。
柵がどうも消えてくれない。私の腹辺りまでしかない低いものなので、乗り越えることはできるのだが、それではだめなのだ。侵入ではなく、招かねることを渇望する。
今になって、手帳を置いてきたことを後悔してきた。この疲れと共に走る思考を一つ残らず書き残しておきたかった。
とうとう柵は終わらず、川に飛び込めなかった。座っていたベンチははるか向こうに点として見えた。そこに落ちていた落ち葉から、私はなぜだか知らないがイメージを受け取り、次の日には原稿用紙はかなりの枚数が使われた。
向かう先は決まったものになるとは限らず、それが私の日常だった。