ハルニレの樹 第一章 (永遠の絆)
ハルニレの樹
陽が傾き、天上が茜色に染まり始めると、十勝川の河川敷の広大な牧草地に神々しい黄昏が訪れる。
西空に、雲の厚みによってオレンジ色の濃淡が描き出され、雲と雲との隙間からは、夕陽が僅か数分の間だけ真紅の輝きを放つ。
その一瞬、空一面が燃えたち、左右いっぱいに大きく枝を伸ばして立つ大樹の神秘に満ちたシルエットを映し出す。
やがてその幻想的な残像を残して、燃え尽きたように夕陽が沈む。
そこに立つ大樹は、元々は全く別々の二本の樹だった。
寄り添う運命を持った二本の樹は、厳しい自然の中で、長い年月をかけて風雪にも耐えながら、決して離れることのない永遠の絆を互いに誓うかのように寄り添い続け、やがて一体化した。
永遠の絆を誓い――、寄り添い続けている。
――それは、
荘厳の佇まいに満ちた、樹齢百四十年のハルニレの樹であった。
※
あの夏の日。二人は夢と希望に満ち溢れていた。
ハルニレの樹の前で二人は夢を誓い合った。
先をゆく時間の方が長く、来た道を振り返るよりも先の道のりの方が遥かに長い。
先の道のりが充分にあるからこそ、夢や憧れを抱き、二人の理想とする未来を一緒に築きあげることができると信じていた。
そして――、涼子と俺、オレは涼子と、二人はあのハルニレの樹のように、ずっとずっと一緒だと信じて疑わなかった。
いや、それが当然のことのように悦司は思っていた。
涼子と一緒の時間が変わりなく、未来永劫にあるものだと、失われてしまうことなんて考えもしなかったのと同じように。
あの夏の日。悦司に訪れたのは漆黒の闇だった。
夢と希望のうちに未来はあった。
二人の絆は未来を照らす光であった。
涼子は悦司を照らす光であった。
光は涼子の中で輝いていた。
漆黒の闇に光は輝きを奪われた。
暗闇は二人の未来を理解しなかった。
※
涼子とは神戸の大学に入って間もない頃に知り合った。映画やドラマに出てくる夢のような出逢いではなく、お互いに同じ建築学生サークルに所属していたけれど、最初は接点もほとんどなく、顔見知り程度でしかなかった。ある日のサークル活動の後、そう大学に入って初めて雪が神戸に舞った夕暮れだった。
たまたま帰りのタイミングと方向が一緒になった。なんとなく涼子に声をかけて一緒にラーメン屋に行った。その時、一緒にいてとても心地いいと感じている自分がいることを知った。
それからどんどん「好き」になっていった。
彼女のどこをどのように「好き」なのかと誰かに訊かれれば明確な理由などは説明できないけれど。
ただ、その人が自分にとって必要な人であると感じ「好き」という気持ちを抱いた。
ラーメンを食べながら話していると、お互いのアパートは歩いて十五分くらいしか離れていないことや彼女の出身高校は金沢で実家は工務店をしていて父親は大工でお爺さんも宮大工だったこと。
父親は息子が欲しかったらしいけれど、涼子が幼稚園に入った頃に母親は子宮がんの手術をしたから結局、涼子は一人娘だってこと。母親は手術後順調に回復してその後は元気だと聞いて何故かホッとした。
自分も同じように話した。実家は城之崎で小さな旅館をしていて、両親と姉夫婦が切り盛りしていて、姉夫婦には幼稚園に通う双子の女の子がいて、殆どマスオさん状態の義兄が料理長で冬になるとお客さんのお膳に出せない足の取れたカニをたまにクール宅急便で送ってくることや、そして、将来は小さな設計事務所を開くことが自分の夢だということも。
ラーメンを一緒に食べた初雪の夕暮れを境にして、涼子と仲良くなっていった。やがてどちらからともなくお互いの部屋に行き来するようになった。
その理由も特にあったわけではなくて、鍋をするにも独りじゃつまらないし、不経済だからだとか、城之崎の実家から足の取れたカニが届いたからお裾分けしたり、大学の課題に一緒に取組んだり、バイトで出られなかった講義のノートを見せてもらったり。
何よりも一番の理由は一緒に居ることが心地よかったからなんだ。そう一緒に居たかった。
だけど、どんどん好きになる気持ち以外には何の進展もない。お互いの想いを告白することもないままに日常は淡々と過ぎていった。
※
人は自分に好意を示してくれる人に対して、きっと良い印象を抱くのだろう。自分のことを好いてくれる人は、自分の味方になってくれて、そうした人と協力することで、本能的に自分の身を守ることができると知っているからなのだろうか。
いやそうではなくて、人間は他人に「何かをしてあげること」で喜びを得る本能を持っているのではないか。そのために自分がそうであるように、涼子もまた「自分を必要としている人」を求めていたのではなかったのだろうか。
生まれ育った場所から離れて独り暮らしが始まった。
大学に入って間もない頃にサークルという同じコミュニティにいる仲間という親近感が生まれ、そこからふたりは始まったのだと思う。でもその親近感はやっぱり、涼子だったからだ。 涼子ではなくて他の誰かだったら有り得なかった。
※
涼子と付き合い始めて、初めての梅雨が訪れようとしていた。
バイトの帰りに駅前の肉屋でコロッケを六個買って涼子の部屋に行くと、どこから持ち帰ったのか彼女は旅行のパンフレットを眺めていた。
「北海道には梅雨はないのよ」両手でマグカップを包んで彼女は続けた。
「気象学的には、『北海道では梅雨の現象がはっきりしない』だって」
座卓のうえにコロッケの紙袋を置いて涼子の隣に座り、パンフレットを覗き込んだ。
「北海道行くの?」
それには答えずに、
「すごく美味しそうな匂い」
そそくさと紙袋から取り出したコロッケにパクついて、「コーヒーでいい?」と言うと返事をする前にインスタントコーヒーを淹れだした。
「北海道って緯度が高いから梅雨前線が届かないんじゃないの? 極端なこと言えば梅雨になる前に夏になってしまうってことかな」
狭いキッチンに立つ涼子の背中に向かって言うと、
「ねぇ、ねぇ、榊くん。ワタシのこと愛してる? ワタシのどこが好き?」
(うぐぅう!)いつも涼子の唐突さには驚かされる。
ドキっとした気持ちと動揺の気配を察知されないようにわざと話を逸らしてやった。
「はあ? 北海道の梅雨の話じゃないの」
お揃いのマグカップを座卓の前に置くと、体育座りで両膝を抱いて涼子は俺の右側に斜めになってくっ付いた。
「ねぇ、ねぇ、どうなのよ? 榊くん。ワタシのこと愛してる? ワタシのどこが好き?」
二、三度身体を横にゆすって涼子はさらに強くくっ付いた。
(もしかして告白しろ。てこと?)
何をどう答えればいいのか全く分からなかった。もちろん涼子のことは大好きだ。でもその好きは部分的な好きではなくて全部が好きな訳で具体的に説明できるような断片的な好きではないから答えに困る。だから言った。「涼子だから好きだ」と。
すると、意外なまでの答えが涼子から返ってきた。
「うん。よかった。ワタシも榊くんだから好き」
そして、涼子は言った。
陽が傾き、天上が茜色に染まり始めると、十勝川の河川敷の広大な牧草地に神々しい黄昏が訪れる。
西空に、雲の厚みによってオレンジ色の濃淡が描き出され、雲と雲との隙間からは、夕陽が僅か数分の間だけ真紅の輝きを放つ。
その一瞬、空一面が燃えたち、左右いっぱいに大きく枝を伸ばして立つ大樹の神秘に満ちたシルエットを映し出す。
やがてその幻想的な残像を残して、燃え尽きたように夕陽が沈む。
そこに立つ大樹は、元々は全く別々の二本の樹だった。
寄り添う運命を持った二本の樹は、厳しい自然の中で、長い年月をかけて風雪にも耐えながら、決して離れることのない永遠の絆を互いに誓うかのように寄り添い続け、やがて一体化した。
永遠の絆を誓い――、寄り添い続けている。
――それは、
荘厳の佇まいに満ちた、樹齢百四十年のハルニレの樹であった。
※
あの夏の日。二人は夢と希望に満ち溢れていた。
ハルニレの樹の前で二人は夢を誓い合った。
先をゆく時間の方が長く、来た道を振り返るよりも先の道のりの方が遥かに長い。
先の道のりが充分にあるからこそ、夢や憧れを抱き、二人の理想とする未来を一緒に築きあげることができると信じていた。
そして――、涼子と俺、オレは涼子と、二人はあのハルニレの樹のように、ずっとずっと一緒だと信じて疑わなかった。
いや、それが当然のことのように悦司は思っていた。
涼子と一緒の時間が変わりなく、未来永劫にあるものだと、失われてしまうことなんて考えもしなかったのと同じように。
あの夏の日。悦司に訪れたのは漆黒の闇だった。
夢と希望のうちに未来はあった。
二人の絆は未来を照らす光であった。
涼子は悦司を照らす光であった。
光は涼子の中で輝いていた。
漆黒の闇に光は輝きを奪われた。
暗闇は二人の未来を理解しなかった。
※
涼子とは神戸の大学に入って間もない頃に知り合った。映画やドラマに出てくる夢のような出逢いではなく、お互いに同じ建築学生サークルに所属していたけれど、最初は接点もほとんどなく、顔見知り程度でしかなかった。ある日のサークル活動の後、そう大学に入って初めて雪が神戸に舞った夕暮れだった。
たまたま帰りのタイミングと方向が一緒になった。なんとなく涼子に声をかけて一緒にラーメン屋に行った。その時、一緒にいてとても心地いいと感じている自分がいることを知った。
それからどんどん「好き」になっていった。
彼女のどこをどのように「好き」なのかと誰かに訊かれれば明確な理由などは説明できないけれど。
ただ、その人が自分にとって必要な人であると感じ「好き」という気持ちを抱いた。
ラーメンを食べながら話していると、お互いのアパートは歩いて十五分くらいしか離れていないことや彼女の出身高校は金沢で実家は工務店をしていて父親は大工でお爺さんも宮大工だったこと。
父親は息子が欲しかったらしいけれど、涼子が幼稚園に入った頃に母親は子宮がんの手術をしたから結局、涼子は一人娘だってこと。母親は手術後順調に回復してその後は元気だと聞いて何故かホッとした。
自分も同じように話した。実家は城之崎で小さな旅館をしていて、両親と姉夫婦が切り盛りしていて、姉夫婦には幼稚園に通う双子の女の子がいて、殆どマスオさん状態の義兄が料理長で冬になるとお客さんのお膳に出せない足の取れたカニをたまにクール宅急便で送ってくることや、そして、将来は小さな設計事務所を開くことが自分の夢だということも。
ラーメンを一緒に食べた初雪の夕暮れを境にして、涼子と仲良くなっていった。やがてどちらからともなくお互いの部屋に行き来するようになった。
その理由も特にあったわけではなくて、鍋をするにも独りじゃつまらないし、不経済だからだとか、城之崎の実家から足の取れたカニが届いたからお裾分けしたり、大学の課題に一緒に取組んだり、バイトで出られなかった講義のノートを見せてもらったり。
何よりも一番の理由は一緒に居ることが心地よかったからなんだ。そう一緒に居たかった。
だけど、どんどん好きになる気持ち以外には何の進展もない。お互いの想いを告白することもないままに日常は淡々と過ぎていった。
※
人は自分に好意を示してくれる人に対して、きっと良い印象を抱くのだろう。自分のことを好いてくれる人は、自分の味方になってくれて、そうした人と協力することで、本能的に自分の身を守ることができると知っているからなのだろうか。
いやそうではなくて、人間は他人に「何かをしてあげること」で喜びを得る本能を持っているのではないか。そのために自分がそうであるように、涼子もまた「自分を必要としている人」を求めていたのではなかったのだろうか。
生まれ育った場所から離れて独り暮らしが始まった。
大学に入って間もない頃にサークルという同じコミュニティにいる仲間という親近感が生まれ、そこからふたりは始まったのだと思う。でもその親近感はやっぱり、涼子だったからだ。 涼子ではなくて他の誰かだったら有り得なかった。
※
涼子と付き合い始めて、初めての梅雨が訪れようとしていた。
バイトの帰りに駅前の肉屋でコロッケを六個買って涼子の部屋に行くと、どこから持ち帰ったのか彼女は旅行のパンフレットを眺めていた。
「北海道には梅雨はないのよ」両手でマグカップを包んで彼女は続けた。
「気象学的には、『北海道では梅雨の現象がはっきりしない』だって」
座卓のうえにコロッケの紙袋を置いて涼子の隣に座り、パンフレットを覗き込んだ。
「北海道行くの?」
それには答えずに、
「すごく美味しそうな匂い」
そそくさと紙袋から取り出したコロッケにパクついて、「コーヒーでいい?」と言うと返事をする前にインスタントコーヒーを淹れだした。
「北海道って緯度が高いから梅雨前線が届かないんじゃないの? 極端なこと言えば梅雨になる前に夏になってしまうってことかな」
狭いキッチンに立つ涼子の背中に向かって言うと、
「ねぇ、ねぇ、榊くん。ワタシのこと愛してる? ワタシのどこが好き?」
(うぐぅう!)いつも涼子の唐突さには驚かされる。
ドキっとした気持ちと動揺の気配を察知されないようにわざと話を逸らしてやった。
「はあ? 北海道の梅雨の話じゃないの」
お揃いのマグカップを座卓の前に置くと、体育座りで両膝を抱いて涼子は俺の右側に斜めになってくっ付いた。
「ねぇ、ねぇ、どうなのよ? 榊くん。ワタシのこと愛してる? ワタシのどこが好き?」
二、三度身体を横にゆすって涼子はさらに強くくっ付いた。
(もしかして告白しろ。てこと?)
何をどう答えればいいのか全く分からなかった。もちろん涼子のことは大好きだ。でもその好きは部分的な好きではなくて全部が好きな訳で具体的に説明できるような断片的な好きではないから答えに困る。だから言った。「涼子だから好きだ」と。
すると、意外なまでの答えが涼子から返ってきた。
「うん。よかった。ワタシも榊くんだから好き」
そして、涼子は言った。
作品名:ハルニレの樹 第一章 (永遠の絆) 作家名:ヒロ