世界の崩壊を望んだ彼は
果てのない空間である、前方は開けた広大な岩場であるのに、灰色の終わる地は彼の眼に全く映らなかった。けれども何故そこが箱の中なのかと問われれば、こうである。天井を見上げれば確かに、箱の辺のようなものがうっすらと見え、壁が左右を阻んでいたからに他ならない。
彼は、一瞬空を見上げ、高い鼻を空気に翳した。
荒涼な大地は何処までも広がり、しかし有限の天井と幅のない側面だけが、彼を圧迫していた。
彼は、早く元の土地へ戻りたいと切望していた。
此処が壁ならば、恐らく叩けば元の世界に戻れるに違いない、そう信じて居た。
だから、いずこからか取り出したナイフで壁を切り裂いてみた。だが、びくともしないので、ナイフを金槌に変えた。
巨大なハンマーではなく、あくまでも手に収まるサイズの、言わば普通の金槌である。
ゆっくりと地面を叩き始め、岩場が崩壊することが分かると、彼は岩場を少しずつ壊していった。
金槌を振るえば、容易く地面は崩れていく。ほろほろと、メレンゲで出来たクッキーのように粉々になっていずこかへ消えて行くのである。
しかし、彼のおさめられた箱型の世界は広大だった。広大すぎて、彼の手のひらはいつしかマメだらけになった。それでも、外に出たい一心で、彼は今日も金槌を叩く。
やがて、マメから血が滲んだちょうどそのころ、一人の男が彼の眼前に立ちはだかった。
地面の破壊に勤しみすぎたのだろう、彼は男の存在を、彼の靴に金槌を振るうその瞬間まで認識していなかった。
「世界は壊れないぞ」
「いいんだ。これで」
「壊しても、意味がない」
彼は忌々しそうに眉根を寄せながら言い放った。
いらいらとしたとき、爪先を床にたたきつけるのが彼の癖なのだろう。唇の端を噛みちぎらんばかりの勢いで噛み締めながら、彼は僕の手のひらを握った。
「意味がないんだ。話、最後まで聞けよ。」
手のひらを握られたことで、金槌が地面に落下した。その瞬間だったと、彼は記憶している。
「わ!」
「ほうら、言っただろう」
地面は音もなくほろりと崩れ落ちた。メレンゲの塊が、箱型の空間の中で爆ぜるようにして落ちて行く。落ちる先は全く見えず、白い闇がただ広がっているだけだった。
彼らはどこまでもどこまでも、お互いの両手を握りしめたまま落下していった。
最後に触れたのが、彼の唇だと気付いた時、彼は唐突に目を覚ました。
そうして、しばらく経ったとき、彼はこれが彼の夢の中だと漸く気が付いた。
何て幸せな夢なのだろうと、一人涙を流し、男の手のひらを握り締める。
「ごめんなさい。」
彼は、夢の中でしかその恋人に会う権利がなかった。今や血の気が失せた彼の恋人は、落下をすることもできず、目の前に横たわっているのみである。
彼の世界は、昨日、文字通り崩壊したのだ。
爪先を地面に打ち付ける癖は、彼のものだった。ぶっきらぼうな口調は夢の中でも変わらず、触れた唇は、生きている者のそれで、温かかった。
しかし、全てもう、幻の中へと消えて居るものだった。
触れた唇は、死人の味がする。
彼は、握り締めた男の手のひらを解き、またねと呟いて、病室の扉を開いた。
消毒のにおいに満ちている病院の廊下には、人一人おらず、全員寝静まってしまったかのように、気配すらない。
彼はそのまま階段を上り、広々とした屋上に出た。
屋上の真上に広がる空は、丁度彼が夢の中で見たそれに良く似て居た。
「またね、今直ぐ行くからね」
彼はおもむろにジャケットから金槌を取り出すと、それを握り締めたまま高いフェンスを越えた。自分目掛けて振り下ろした先、傾いだ身体は勢いを付けて落下を始める。
こうすることで、恋人が、もう直ぐ彼のそばに存在し得るようになる。
夢の崩壊を望んだ彼は、そして現実世界の崩壊をも望んだ。その先にあるのは、幻想の世界だけだった。
とても、幸福な世界だった。
作品名:世界の崩壊を望んだ彼は 作家名:柳ゆずる