私を置いて行かないで
「私を置いて行かないで。お願いだから」とMが囁いた。
Mは長い髪、大きな瞳、大きな胸をした美しい女だが、内面的には、これといった特徴はない。どこにもいる平凡な若い娘に過ぎない。さほど気には留めていなかった。
だが、彼女から出た、「私を置いて行かないで」と言葉が、矢のように心に突き刺さってしまった。
それは夏の夜。
出張から戻り、Mと一緒に飲んだ時のことである。
飲みながら、Mが出張についてあれこれと聞いた。
「良かったよ。『博多で暮らすのも良い』とあらためて思った。博多には何十回も言っている。玄界灘に面した海辺はしゃれたマンションが並んでいる。そんなマンションで自由気ままに暮らすのも良い」
さらに酔った勢いでまかせて言った。
「いつか、ここから去る日が来ると思っていた。恋とか愛とか、いろんな経験したけれど、実らなかった。余生というにはまだ早いが、残された人生をゆっくりと過ごしたい。サラリーマン生活には、もう飽きたよ。馬車馬のように頑張っても、何か空しい」
「本当に?」とMが真剣な眼差しで聞いた。
「本当さ」
「行ったら、戻って来ないの?」
「一度、離れたらなら、もう二度と戻る気はない」
酒にかなり酔っていた。たぶん、自分の言葉にも酔っていた。
おそらくMも酔っていただろう。それもかなり。酔いに任せて呟いた言葉が、「私を置いて行くの? そんなの嫌よ。置いて行かないでよ」
予想もしていかなった。胸にずしりと突き刺さった。
その時、彼女を見た。大きな瞳で微笑んでいた。まるで、何も知らない幼子のような瞳だ。その美しい瞳の奥に誘い込まれ、言葉を失った。
酔いに任せて戯れに出た言葉だ。十分に知っている。だが、「私を置いていかないで」という言葉が胸を刺さったまま抜けない。
彼女の、その透き通って瞳を見ているうちに、遠い昔、どこかで捨てていた“夢”をも思い出した。学生の頃、画家になるという夢があった。自分の生涯を飾る一枚の絵さえ描ければ、死んでもいいと思った。あれから二十年も過ぎた。結局、画家になれず、平凡なサラリーマンとなってしまった。母がよく言った。「働いて、ご飯を食べられたら、それで十分幸せだ」と。平凡なサラリーマン生活に、母がいう幸せを見出しそうとしたが、見出せなかった。のみならず空しく、さらに限界さえも感じ、サラリーマン生活に終止符を打とうしていたときである。「私を置いていかないでよ」とMが囁いた。
居酒屋を出た後、「今度、博多のお土産を渡すよ」と言って別れた。
部屋に戻ると、眠くなった。
少しずつ、夢の世界に落ちていく。まるで翼が折れた天使になったような気分。心地よく落ちていく……ゆっくりと心地よい夢の世界へ……。
ふと気づくと、ずっと前にMと一緒に映った写真を見ている。そうだ、半年ぐらい前から、Mが近くにいると感じていた。だが、恋しているような気分ではなく、ただ一緒にいると楽しいという気持ちしかなかったが、「私を置いて行かないでよ」という一言で何かが変わった。
誰かが話しかける。声がする壁の方に目をやる。影が映っている。影が笑っている。
「馬鹿げた話だ。今さら恋などとするなんて。下らない。写真なんか捨ててしまえ」
影に向かって言う。
「恋? もう、そんな歳ではない」と平静を装う。
「わけもなくMの写真を見ている。魂が吸い寄せられている証拠だ。それが恋というものだ」と影が笑う。
「恋なのかどうか、実を言うと、よく分からない。ただ、Mの笑顔を見る度にとても懐かしい気分になる」
「どんな懐かしさだ?」と影が聞く。
その時、“チリン、チリン”という音に夢から現実の世界に引き戻される。
メールが届いたのだ。Mからである。動物と花の絵文字に囲まれた、わずか数行のメールだが、心を躍らせる。メールを読むたびにMの笑顔を思い出す。ふと思った。Mの笑顔に感じていた懐かしさ。それは遠い昔の母の笑顔だった。あまりにも遠い昔のこと。母の死は辛い思い出だったので、ずっと記憶の底に沈めていた。それをMの笑顔が解き放ったのだ。
Mに返信を書いてみた。
『僕と君とは、大きな隔たりがある。生まれた時代も、環境も、求めてきたものも、ひょっとしたら何もかも違っている。それは乗り越えられないものかもしれない。大河の向こう側とこちら側の差くらいの大きな隔たりがあるかもしれない。それでも、君といるととても楽しい。君のことを思うと不思議と心が落ちつく。遠い昔にもこんな感情があった』
書いているうちに、内容がまとまっていないことに気付き、返信するのを止めた。
出張を終えたら、辞表を出そうと思っていた。だが、出せない。というのも、Mの「私を置いて行かないで」と言葉が忘れられないからだ。それを恋というなら、確かに恋していたのかもしれない。一時、戯れで、成就するとも思っていなかった。だが、その一時の戯れに興じるのも面白いと思って、辞表を出すのを思いとどまったのである。
数日後、Mを居酒屋に誘う。
初めに土産を渡す。Mは「嬉しい」と言いながら包みを開ける。
酒がだいぶ進んだ頃合いを見計らって、「この前、君が言ったことを覚えている」と聞く。
Mが不思議な顔して、「何て言った? よく覚えていない。だいぶ酔ってしまって。変なことを言った?」と怪訝そうな顔をする。
少し失望した。やはり、酔ったときの戯れだったか。少し期待したのが間違いだった。無視すべきだった。
「いや、何も言っていないさ」と平静を装う。
Mは酒が進むと、彼女は実に陽気になる。まるで子供みたいに、それを見ているだけで楽しくなる。
十二時も回ろうとしていた。そろそろお開きの頃である。Mがそっと顔を寄せて囁く。
「実を言うと、覚えている。あの時、あなたは、『遠くに行く』と言った。私は悲しくなって、『私を置いて行かないで』と言った。素面だと恥ずかしいから言えなかった。でも、本当の気持ちだよ」
思わず、自分の胸に手をあててみた。あの時から、その言葉はずっと刺さったままだった。
作品名:私を置いて行かないで 作家名:楡井英夫