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レールも終わりのない旅

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『レールも終わりのない旅』

 もうじき、サラリーマン人生を終える。
 生活資金には困っていないから、慌てて次の仕事先を見つける必要もないが、自由の時間をどう過ごせばいいのかが分からない。
サラリーマン生活の良い所は会社がレールを引いてくれることだ。そのレールの上を走れば、さほど考えることも悩むことなく生きていける。
 だが、退職をすると、その途端にレールが消える。レールがないと、自由にどこでも行けるが、その反面、どこに行くか、どうやって行くか、その全てを自分で決めないといけない。自由とは、案外、大変なのなのである。その大変な生活が目前に迫っている。

 渡り鳥は地図なしに目的地に行ける。かつて船乗りは北極星を目印に航海した。だが、六十年生きてきたというのに、自分には、その目印も目的地もない。そして安らぎ場さえない。全くの根無し草である。
最近、永遠の眠り、つまり、死はいつ訪れるのかと考える。それまでの間、つまり、残された時間は、「活躍しよう」とか、「世の中に貢献しよう」とかは思っていない。ただ安らぐ場が欲しい。永遠の眠りにつく前にほんの一時でも安らぐ場がほしい。
 
 いろんなことがあった。夢も、恋も、どれも夏の花火のように儚く消えた。振り返ると、ただ時間があっという間に過ぎていったような気がする。
最近つくづく考える。誰もが時間という後戻りできない列車に乗った旅人であると。

 子供の頃、田舎で周りに自然以外に何もなかった頃、大人になるのがどんなに待ち遠しかったことか。あの頃と、時間の過ぎる早さが変わったわけではないのに、大人になると、あっという間に過ぎていく。次から次へといろんなことが起こり、それに追われているうちに老いていく。丁度、都会の電車が駅を次々と通り過ぎていくように。

 あれは大学四年の夏のこと。
帰省するために列車に乗った。向かい側の座席には、若い母親と小さな男の子が座っていた。
 ぼんやりと、車窓から外を眺めていた。列車は街から離れていくに従い、家並から緑の水田と変わっていった。空は金属のような濃い青色をしていた。風が少し吹いていて、緑の木立の梢を微かに揺らしているが、白い雲はまるで動じない。
 複雑な思いだった。母が望んでいなかった形で就職したことを告げなければならないからだ。母が一緒に暮らすことを期待していたことをずっと前から知っていた。
 幼子が時より自分の方をうかがうように見ていることに気づいた。幼子の瞳は澄んで大きかった。人懐っこいのか、それとも自分が父親にでも似ているのか、こっちも何度も覗き見ては直ぐに顔を隠した。ある瞬間、視線があった。幼子は条件反射的にニコッとしたので、こちらも思わずニコッとした。笑い声を発したかと思うと、恥ずかしいのか、すぐに母親の胸に顔を埋めた。母親は何もなかったように子供の顔を撫ぜたり、髪を撫ぜたりした。しばらく経って、幼子がまたこっちをじっと見て微笑む。突然、思った。自分にもこんなふうに母親に甘えた時期があったことを。
夕方に家に着いた。
 夕方になっても、いっこうに涼しくならず暑かった。気まぐれに風が吹いて風鈴の音がした。
 夕食を済ませた後、
「就職先を決めた」と報告すると、
「どこへ就職するの?」と母は聞いた。
「東京だと思う」
 母は黙った。
 しばらくして、「どうして、東京なの?」と聞いた。
「田舎じゃ、良い仕事が見つからない」とつっけんどんに答えた。
 母はそれ以上、何も言聞かなかった。
 母を見て、あらためてもう若くないことは気づいた。白髪交じっていた。そういえば、随分前から、「脚に水が溜まる」とか、「目がよく見えない」とか、「血が濁っている」とか、よく愚痴るように呟いていた。それでも、それが、死に近づいている証拠だとは気づかなかった。おそらく、自分があまりにも若すぎて、母の老いというのを理解できなかったのであろう。就職して二年も経たないうちに、母はあっけなくこの世を去った。死ぬとき、まるで葉をすっかり散らし痩せた老木のような姿だった。あまりにもあわれな最期に言葉を失った。就職先を探している時、迫る母の死を予感できたなら、きっと田舎で就職口を探し、母に寄り添っていたであろう。しかし、死を予感できなかったばかりか、ただ遠くに行くことさえ夢見ていた。遠くへ……。
 そうだ、遠くへ行くことを夢見ていた。ずっと小さい頃から……田舎の静かで変わらぬ日々に飽きるようになったのは、小学生のときだろうか。それからというもの、故郷の村を離れることを夢みた。夢はいい。誰でも自由に思い描くことができるから。いろんなことを夢に描いた。あるときは学者、またあるときは冒険家。そんな途方もない夢を息子から聞かされた母はとまどいの色を隠せなかった。
「自分を知らないといけない」と叱った。
 母の言う通り、もっと自分を知るべきだった。自分を知り、おのれの限界をもっと早く知ることができたなら、きっと田舎の退屈な生活の中にも喜びを見出していたかもしれない……。あれから、随分と時が過ぎた。目を閉じれば、まるで昨日のことのように思い出されるのに。故郷の村を離れて三十年という時が過ぎた。だが、自分は生きる目的もやりがいも恋も何も見つけることができなかった。ただ、サラリーマンという名のレールの上を走っただけだった。
大学を卒業してからは、一年に一度だけ故郷に帰る。行き交う人は見知らぬ者だけ。知り合いは一人もいない。ここにも自分の居場所がないことを思い知らされる。故郷は帰る場所ではない。

 ゴッホは言った。「ただ星を見ていると、僕は訳もなく夢想するのだ。なぜ蒼穹に光り輝くあの点が、フランスの地図の黒い点より近づき難いのだろうか、僕はそう思う。汽車に乗って、どこかへ行けるはずだ。死んでしまえば、汽車に乗れないのと同様に生きている限りは星には行けない」と。
 安らぎの場所は、ゴッホのいう星の世界のあるのかもしれない。即ち死の世界に。それゆえ、生きている限り永遠に見つけられないのかもしれない。そうと分かっていても、きっと会社を辞めた後は、安らぎの場を探し求めて旅をするのだろう。これからレールも終わりもない旅が始まる。