夜の鐘
高山はずっと病院の個室にいる。
夜、眠っていると、どこからもなく音が聞こえてくる。耳を澄ませると、逆に聞こえなくなってしまう。気になってどうしょうもない。不思議なことにその音は、誰も聞こえないという。そして、ある時、それは鐘の音であることに気付いた。
看護婦にそのことを話したら、「長く病院にいると、いろんな夢を見てしまいます」と笑って受け流した。
単なる妄想に過ぎないという看護婦の言葉に腹が立った高山はもう二度と鐘の音の話をしなかった。
高山の手術は成功したが、いっこうに体力が回復しない。咳も止まらない。体のあちこちに痛痒を感じる。どれも原因が分からぬという。
担当の吉野医師は、「精神的なものかもしれない。とりあえず様子をみましょう」と言われてから、もうあれこれ二か月近くなる。
早く退院したいが、それが叶わない。そのせいで、すぐに八つ当たりをしたり、毒づいたりする。看護婦はそれを年寄特有の気難しさと勘違いしている。
さらに一か月が過ぎた。季節は夏になろうとしている。
別の部位で腫瘍が見つかった。高山は生まれて初めて死を意識した。頭の中が真っ白になった。死は遠い世界の出来事だと思っていたのに、急に身近なものに思えた。
吉野医師は手術を勧めた。
高山は、「手術をすれば、どのくらい長く生きられるのか?」と聞いた。
すると吉野医師は、「あと十年は生きられます。もちろんそれ相応のお金がかかりますが」と答えた。
「やはり金か」と高山は落胆した。
高山は無表情のまま天井を見た。
天井を見ている時間があまりにも長いので、そこに何かがあるのかと思って吉野医師も天井を見たものの、何もない。
高山は裸一貫で事業を起こした。年商百億の会社を作り上げ、資産も数億になった。幼少の頃から貧しい生活を強いられてきたせいか、ハングリー精神は桁外れだった。ハングリー精神を持たない人からみれば、物欲の塊のように映った。ひたすら事業を拡大した。
金の亡者。金のためのみ生きた男。そして命さえ手に入ることを知る。しかし、彼は金以外何も残らなかった。友を裏切り、妻は病死、たった一人の肉親である娘さえも二十歳前に自殺した。自分が思う男に娘を嫁がせようとしたからだ。いつも従順な娘だった。結婚に関しても何も反対しなかったのに、結納しようとした前の日、自殺した。遺書を残さずに海で死んだので正確には自殺とは分からなかったが、高山は自殺だと確信していた。
「まだ結婚したくない」と言った目が彼の脳裏に焼き付いていた。
「遅いということはあるが、早いということはない」と言い返すと、娘は目をそむけて遠くを見るようなふりをした。あれは娘の深い悲しみの表情だった。母親を失ったときもそんな目をしていた。
今は独りだ。老いて初めて彼は何が大切かを知った。巨額の資産と引き換えに失ったものの大きさに気付いたのである。しかし、今さらどうにもなるものではなかった。
手術を勧められた数日後の夜、また鐘の音が聞こえた。
突然、「祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり…」という平家物語の一節を思い出した。そのとき、あの鐘の音はあの世から鳴る音だと思った。病院に入るまで、死後のことなど考えたことがなかったのに……
翌日、高山は手術を受けないことを吉野医師に告げた。