思春期発火症
そう考えたのはやはり相手が崎だったからだ。馬鹿なことやくだらないことを面白がる人間だが、人を馬鹿にして面白がるのは今迄に見た覚えがない。
単純に僕を揶揄っているだけということは、崎に限ってない、筈だ。だとしたら何かオチがあるのに違いない。
それならオチまでつきあってやろう。
「自覚症状がないだけで、罹ってるのは結構たくさんいるんじゃないかと思うんだけどな」
「自覚症状」
「そう。罹ってるんだけど、発火にまではいたらない」
「煙が出るくらいか。体育の佐々木なんかそんな感じだな」
一昔前の熱血教師ドラマみたいな、暑苦しい感じの。大学出たてとか言ってたから、まだエネルギーが余ってるんだろう。似たようなタイプの生徒や、女子には人気があるらしい。
「ああ、あれはねえ……潜伏期間が長すぎたか、罹るのが遅かったんだろう。思春期終わってまで引きずるのはどうかと思うな」
「でも病気なら仕方ないだろう」
それもそうだと崎は苦笑した。
「僕も罹ってるかも知れないわけか」
「どうだろう」
崎は麦茶のコップをつかんだ。
座卓の上を風が通り過ぎた。ノートのページがはらはらめくれるのでわかる。消しゴムの屑が散った。急いで拾い集めた。
「俺」
低い声。
「罹ったらしい」
反射的に見返したが、崎は手の中のコップを見据えていた。
かりかりかり、風鈴が鳴る。
「……罹ったって」
崎の手の中で、麦茶がぶくぶくと沸騰の泡を出すような気がした。
「病院は。……小父さんに見てもらったほうがいいんじゃないか」
「親父は外科だ」
「じゃ何科だ」
「言ったろう。研究者はいないかもしれない」
「でもほっとけないだろう」
崎は答えず、麦茶をぐいと飲み干した。燃え付きそうになった火を、慌てて消したように見えた。
「とにかく小父さんや小母さんには言わなくちゃ。それより起きてていいのか、冷やして、安静にしてないと」
「……信じたか?」
にい、と今度ははっきりと崎は笑った。
かつがれた。そう思ったら頭が熱くなった。
「崎!」
崎は伸びた髪を掻きながらくっくと喉で笑った。
「信じてもらえなかったらどうしようかと思った」
笑顔は泣き笑いに見えた。
「よかった、話してみて」
「……本当なのか」
熱は一気に冷めた。
「お前を騙してどうする」
それでは、本当なのだ。
「……いつからだ」
「休みに入る少し前。期末が終わるくらいか」
崎の表情は、いつもと全然変わらなかった。だから僕も、小母さんや小父さんもこれまで気がつかなかったんだろう。
「……火が、つくのか」
「見たいか」
息が詰まるような気がした。小父さんの書棚の、あの本を見たときの感じに似ている。
「見たいって言ったら、見られるのか」
「見たいのか」
崎は繰り返した。
「……大丈夫なのか、火事になったり……お前が火傷したりしないか」
「たぶん。でも」
口篭もる。伸びた前髪の陰に、俯きの表情が隠れてわからない。
「でも?」
座卓の上に肘を突いて、身を乗り出した。
「崎が嫌なんだったらいいよ。それよりほんとに病院行かなくていいのか。崎が言うの嫌だったら、僕が話そうか」
唇が歪んで、泣いているように見えた。
「崎?」
不意に崎は、顔を上げた。
泣いてはいなかった。
冷たい呼気。額に汗を含んだ髪が張りついた。
ああ、南瓜じゃないか。薩摩芋じゃあない。
がたんと何かの倒れる音がした。
風鈴は鳴っているはずなのに。短冊がくるくると揺れているのが見える。でも音が消えた。
冷たい。
麦茶のコップが倒れて、座卓の上は水浸しになっていた。へりを伝って茶色い滴がぽとぽとと畳に垂れていた。
拭かなくちゃ。
何か拭くもの。ティッシュかタオル、雑巾。
ぼんやり見回した。廊下に足の先が見えた。
「タオル。膝濡れたろ」
そう言われてやっと自分の服が濡れているのに気がついた。
「ノートは乾かせばなんとかなるかな」
崎は手際よく座卓の上を片づけながら、タオルを何枚か使って水分を吸い取る。白いタオルが茶色に染まる。
冷たい……。
膝ではなくて、口を拭っていた。
唇。なんであんなに冷たいんだろう。アイスクリームを食べたせい?
「崎」
名前を呼んだだけなのに、崎はびくっと体を縮めた。
僕を見る眼が、怯えている。
怯えている。崎が?
いやそれよりも。崎は今、僕になにをした? 僕は崎に何を……。
「……何のつもりだ」
「ご免」
ぐわッと言葉が、喉につかえた。何を言ったらいいのか。どんな顔をしたらいいのか。わからないから濡れたノートを投げつけた。
「ご免」
崎はもう一度言って、ノートを膝に抱えたまま動かなくなった。大きい体を、置き場に困るように縮こまらせて。伸びた前髪の下から卑屈にこちらの表情を覗う眼が覗く。
こんな奴は知らない。崎はこんなのじゃない。誰だおまえ。
「……そういうつもりだったのか。ずっと、僕を騙してたのか」
答えない。
こんな奴とは居られない。
立ったら、崎は、あ、と溜息のような低声を上げてこちらを見上げた。
オコラナイデクダサイ。ユルシテクダサイ。イカナイデクダサイ。
卑屈な眼だ。
このまま出ていったら、泣き出すかもしれない。いい気味だ。
こんな気持ちで、崎を見下ろしたことはなかった。いつも見下ろされるのは僕だった。
(崎くんと同じくらいとは言わないけど、もうちょっと見習ってくれたらいいのにねえ)
(お前さあしんどくないわけ、ああいう優等生と一緒に居て?)
(何か変な取り合わせだよね。小学校から一緒なの? ふーん……)
崎と僕はいつも比較されて、いつも崎は僕より上だった。仕方ないと思っていたし、そういうことは関係ないと思って……言い聞かせていた。少なくとも崎だけは、僕をそういう目で見ていないと思っていた。
参考書を入れてきた鞄の中に辞書とペンケースを浚いこんだ。ノートは崎が持っている。もういらない。どうせ濡れた。
猫は沓脱ぎ石の上にいた。
にやあお、と鳴いてさっきよりは少し心を込めて長い尻尾をぱたんと振った。
「バイバイ」
もうこの家には来ないと思うけど。撫でてやると眼を細くして喉を鳴らした。
日盛りのアスファルトは湯気を立てている。じわじわと気の遠くなるような声で蝉が鳴いている。
高い塀を巡らせた屋敷町を抜けて、線路沿いの坂道を上る。線路を渡って今度は下り、家のある団地が見えてくる。暑い。
こんな時間に帰ったら嫌みのひとつも言われるだろう。凄い高音の早口で喋りまくる妹の友達でも来ていたら昼寝もできないだろう。
図書館……は遠い。これから駅まで歩いて五分、電車は一駅だけれど降りてからまた商店街の中を抜けて……その間にかく汗のことを思ったら、気力が失せた。
坂の途中で、上ることも下ることもできずに立ち止まる。影は足の周りのほんの僅かの黒い染みでしかない。濡れた膝がたちまち乾き始めるのがわかる。
暑い熱い。
空気が熱いのか自分が熱いのかわからない。
……うつったかも知れない。