睡蓮の書 四、知の章
ケオルはその様子を捉えながら、その男と自分、そしてキレスとの距離を測った。遠すぎれば届かないが、近づきすぎれば攻撃を誘発する。うまく見定めなければならない。
「月神『アンプ』。魔の力をもってハピ神の庇護せし生命を奪い去る『死神』」
デヌタが立ち上がる。急激に気温が下がり、霧が空気中を濃く広く漂いはじめた。
「非力なるものに降りかかる災厄の主……」
その奥からこちらを捉えるターコイズの瞳は、激しい敵意にまるで氷のように冴え冴えと灯っている。
「その罪は、重い」
霧の中をちらちらと氷粒がまたたく。凍てつく大気。ケオルはそれが北の水神の、月神に対する烈々たる憤怒の現れであると知る。
そうしてケオルは辛抱強くその瞬間を待った。敵もまた油断なくこちらを窺っている。空気がきんと張り詰める。
ぴくり、とデヌタの眉が動かされた。その一瞬を捉え、ケオルは弾かれたようにキレスのもとへと駆け出す。
デヌタの黒い長髪が広げられ、無数の氷の刃が放たれた。それは駆けるケオルを追い、足もとを小さく切り裂いてゆく。
痛みにかまわずケオルは走る。そうしてあと数歩というところで、彼は自身の首もとに手を伸ばし紅玉髄のビーズ帯をちぎり捨てた。横たわるキレスのまわりに赤い粒が点々と転がる。白い石畳の上、それからすっかり闇に呑まれた草むらの中に。
ケオルは投げ捨てるため伸ばしたその腕で、キレスの薄布を掴み取りそのまま、反対側の草むらに身を投げた。そうして肩を激しく上下させながら、敵の姿を探した。周辺の草にくすぶっていた火は完全に消し去られたが、水神はそこから一歩も動いていない様子だった。
まず一撃目は試用である。「月」への警戒があれば当然そうだろう。つまり次はこの程度ではすまない。しかし今度こそ、水神をその場から引き離さねばならないのだ。
水神デヌタはケオルが立ち上がるのを待たず、より深い霧を生み出した。草木を凍らすその冷気、数歩先もまったく見えてこないほどだ。ケオルはかじかむ手で薄布の端に素早く文字を書き連ねる。視界が遮られるのは幸いだった、まだ気づかれては困る。
霧は次第に渦を巻いて吹き付ける。冷たいなどという生易しいものではなかった。身体がそのまま凍てついてしまうかと思われるほどだ。
やがて粒が集い礫(つぶて)となって吹き荒れる。ケオルは薄布を盾にそれをやり過ごそうとした。短く文字で記した術は水属系統の力に働く一種の結界で、布を媒体にそこに魔術の膜を張り巡らせたのだった。
しかし案の定、それは水属の長の力を完全に防ぎきれるものではなかった。まず媒体が弱く、冷気の盾となりえても吹き付ける風には容易くもてあそばれるのだ。ケオルは必死で足を地に踏み縛る――しかしついに魔術の結界が破られ、薄布が引き裂かれると、盾を失ったケオルは宙に投げ出された。
氷の礫が次々と身体に突き刺さる。悲鳴を上げると肺に冷気が入り込む。内側から凍ってしまいそうだった。
水神が力を収め、ケオルは地に投げ出された。寒さのあまり意識がかすみ、身体の感覚がまるでない。文字術による簡易結界は、水属の長の力の前ではあまりにも心許ないものだったろう。それでもあれがなければ、今意識があったか分からない。
大気を覆う霧が徐々に晴れ、水神デヌタがこちらに近づいてくるのが分かった。ケオルはどうにか立ち上がるが、自分が本当に地に立っているかすらあやふやだった。荒い息を吐きながらうっすらと開いた目で敵の姿を捉える。水神デヌタは静かに足を踏み出し、キレスの傍を通り過ぎた。手にはまるでガラスで出来たような、透きとおる氷の槍杖が握られている。
(もう少しだ、あともう少し――)
ケオルはふらふらと後退る。あの槍杖を避ける方法をひねり出さねばならない。
ところが、水神デヌタはふいにぴたりと歩みを止めた。そうして腕を――槍杖を手にしていないほうの腕を、つと引き上げる。
「!?」
手中の武器を用いず何をするつもりなのか。ケオルが困惑していると、掲げた腕の先からするりと水流が生み出され、ケオルに向け放たれた。
迂闊だった。攻撃は武器でなされるものだと思い込んでいた。身構える間もなく――もちろん、身構えたところで無力であるが――、水流はケオルをそっくり呑み込んだ。抵抗するすべなど何一つない。水流が口をふさぎ手足に絡みつく。翻弄されるがままにケオルの身は地に圧し伏せられる。あまりにも無力だった。
それは戯れのようなものであったのかもしれない、水は一度うねりを上げただけで鎮まってしまった。先ほどの技の威力とは比ぶべくもないが、それでも体力を奪うには十分だった。
地に伏せたまま激しく息をするケオルの様子を、ターコイズの瞳が静観するようにじっと捉えていた。奇妙な間。槍杖を振るうにはずいぶんと距離がある。が、デヌタはそれ以上近づくことをしなかった。その目からは強い警戒の色が消えている。
「双生児か……確かによく似てはいる。が――」
デヌタはふっと目を閉じると、冷ややかに言い放つ。
「『月』がまとう魔性と言うべきもの。お前からはそれがまるで感じられない」
呆れか嘲りか、デヌタはその淡青色の目で一瞥すると、静かに背を向けた。
「非力な身の程で兄弟を庇おうとするか。太陽神側にあるお前たちにも当然、肉親への情があるのだろう。……なればこそ」
デヌタはもう一度歩みを止め、僅かに振り返ると言った。
「身をもってその罪の重さを知れ。これは、お前たちが成した事だ」
デヌタの手にした氷の槍杖が月明かりを照り返す。背に垂れた黒髪が左右に揺れ、その歩はゆっくりと進められる。まるで死刑を宣告するかのように。
ケオルは焦りを抑え深く息を吐き出すと、努めて呼吸を整えた。敵の注意が"真の"月神へと向けられるこのときを、待っていたのだ。
だが準備は万全とはいえない。思うより早かった。距離が十分でなく、意識が揺らぎ呼吸も乱れている……それでもやらねば――今しかないのだ、躊躇っている暇はない。
雑念を払うように強く目を閉じ、ケオルは低く言葉をつむぎだした。
《i, sn.Tn, "wnywy" imyw dwAt. arrt m Akht Imnt, aAwy m Hwt mHwt――おお、汝らよ開け。冥府にまします"開ける双者"。西の地平の入り口を、北の神殿の対の門扉を。》
あのとき北で唱えた月属の術。唱え始めればふしぎと、脳の奥が熱をもち、意識が明瞭になるように感じた。
《wn n.i sbAw, snS n.i arryt.Tn ――我がため門を開け、汝ら、門扉を開け放て。
mAi sf, mAA dwAw, HkA smsw tpy-a.n, "rkht-pAwt" ms n kkw――昨日の獅子、翌日を見るもの。我らが祖なる魔術の長。闇より出ずる"原初を知るもの"。》
まったく同じものではない。それは新たに知りえた詞で彩り連ねてゆく。素早く、しかしできるだけ多く。その威力を、完成度を高めるために。
作品名:睡蓮の書 四、知の章 作家名:文目ゆうき