睡蓮の書 四、知の章
ウシルは原初の神々の影、世界を構築する原理の裏側を支えるそれを、世界から切り離そうと試みた。しかし、彼のうちにあるそれと同じものが、彼をその闇へと強くひきつけたのだった。
往にし方《いにしへ》の神々は彼のうちにありて、天地を呑み込み、また吐き出す。
神々を東に生み、西にそれを食らい、再び己の力と戻す「生命の主」。
その名「下天《イムハト》の主」たる彼、その身のうちに命を通過させアクと成す。
闇に呑まれたウシルは、闇の内側から、その境界を閉じた。それを助けるのは、銀の鬣《たてがみ》の主ヘジュウルである。
われら、王の喰らいし闇より生じ、
その業を蓄え、わが身に保つもの。
王が身より滴る血液、その流れが知性《シア》となり、その音が言語《フウ》となる。
王の認識がこの姿を作り、王の望みがこの言葉を作る。
われらが名、王が頭上に輝く赤と白の双星。
雌牛の湾角、雄羊の波角。
鎌首をもたげ立ち上がる二女神。
頭上に羽毛を戴く対の獅子。
裁きの場における“二つの真理《マアティ》”、その天秤の両皿。
王ウシルと分かちがたくあり、王のあるすべての場所に、姿を変え、現れるもの。移りゆくその姿、その図像。
そうしてたどり着いた、夜闇に包まれた神殿。その大広間に、四十二の神々は黙して座す。外套で身を隠し、その顔はどれも闇に呑まれ判然としない。
その列の導く先に、王座が見えた。
今その王座に座る者はない。だがそこには、得体の知れない闇の渦が、しゅうしゅうと不気味な音をたててうごめいている。
闇の発するその音が、次第に、言葉の連なりとなって届いた。
――[Wsir] ankh m itw.f, wSb m mwtw.f
《――ウシル、祖なる父らを食らいて生き、祖なる母らを糧とせん。》
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《原初のものどもの、「炎の島」より魔力満ち満ちて出で来るその身、その内臓を食らいて生きん。》
wD.f hrw pw n rkhs smsw――
《彼、祖なるものども屠ふる日を定めしものなり――》
地を這うような低い声が身体を震わせる。それは徐々に大きく、響き渡り、幾重にも、まるで世界に満ちどこまでも反響し増殖するように。
音であったそれは言葉となり、文字となる。巨大な文字のインクがにじみ、闇が染み出る。それは互いに引き合うように繋がりあい、膨張し、また手を伸ばし、そうして、足元を、目の前を、口をそして鼻腔を、覆い尽くす――
「……!」
ひゅっと息を呑み、瞳が開かれる。
意識が、急激に押し戻された。ケオルは混乱を収めるように瞬き、深く呼吸をくり返す。
言葉の生み出す幻影に呑まれていた。混沌の闇――言葉の枠に封じた概念であったそれらが、その枠を出、新たな定義を求めるように湧き上がり、肌身に感ずるほどに近づくこの感覚を、ケオルはただ、畏れた。
知ること――それは知る以前よりもそれを確かにすること。見えなかったものを、見ること。知得の層は幾重にもあり、より深い層に及ぶため、以前のものは破られる。結果、恐れ遠ざけていたものに向き合い対処しうるものとなるか。それとも、対し得ていたものを以前より恐れ、避けるようになるか――層ごとに繰り返し、覆し、幾重にも、それは無限に続くように思われた。
戸惑いのうちに、彼は自身の手のひらをみつめる。指先を重ね、その感覚を確かにするとで、今ここにあること、生をもって存在することを、知ろうとした。そうせずにはいられなかった。
それから静かに、彼は瞳を起こす。
兄は変わらず、そこにいた。――いや、目の前に立つのは、大いなる言葉の主。その言葉があらゆる力となり現れる、魔術の長。
その、鋭い眼光。注がれる視線。ケオルは、それを直に受け止めることをためらうように、瞬いた。どこか、理由のつかない怖れが、あらためて胸に湧くのを覚えていた。
《汝、我が名のまことを知るもの。これに、求める知を授けん》
その人は言った。その眼で、声ともつかぬ声で。感情なきその言葉で。
(求める知……)
ケオルの胸に、鼓動がひとつ打ち鳴らされる。
(俺が、知りたいのは……)
ほんとうに、知りたいことは――。
それは、ただ、ひとつ。
あなたは、ほんとうには「誰」なのか、ということ。
ほんとうは、自分の兄ではないのか、と、いうこと――。
「……」
ただひとつの問い、それだけが、真っ直ぐに彼の喉を貫き現れ出ようとする。
しかし、どうしても、言葉にすることが、できなかった。
ケオルは息苦しさを解く何かを求めるように、フチアを見上げた。
そうして捉えた、こちらを静かに見据える双眼。そこに、はっきりと示される、その、返答。
――お前は、その答を、知っているはずだ、と。
ケオルは言葉にならなかったそれを引き剥がすように、息を吐く。そうして、苦しげに目を閉じた。
(そうだ、知っている。その答を、俺は……確かに、知っている)
どんなに否定しようとしても、できない。それはあまりにも明らかだった。
“im-dwAt《アム・ドゥアト》”――「冥府の住人」。
キレスのように、その性質を受け継ぎ、この世に新たに生まれ出たのとは違う。自ら語ったとおり、この姿はここに仮に現しているものにすぎないのだと。
そう、はじめから――、
兄などというものは、存在しなかったのだ。
(こんな……)
ケオルは茫然と立ちつくす。体中の力が抜け落ちてしまったかのようだった。
なにかを得るために、答えを求めたはずだった。それなのに――。
(俺は、こんなことを知りたかったわけじゃ、ない)
意識にぼんやりと灯る、それだけの言葉が、しかし声にならないまま。
(こんな、こと、を――)
にわかに、自身の奥底から湧き上がったものが強く胸を突く。呼吸が次第に荒くなり、揺れる肩。うつむくその影。握られた拳。
ケオルは部屋を駆け出していた。
大きく扇ぐ木の扉。きいきいと軋む音が繰り返され、次第に小さく消えてゆく。フチアはそれを見遣ることもなかった。弟であったものを映していたあの、鋭い眼光が、今や対象をなくして無関心な、熱のないそれに戻されていた。
机上に積まれた紙が一片、床に舞い落ちる。足元を掠めたそれを、フチアが拾い上げた。
ケオルが抱えていた紙の束の一部だった。雑然とした文字の連なりが向きもさまざまに書き散らされ、その一部が、書いた文字を打ち消すように線を重ねられていた。何度も書いては、打ち消した跡。達した結論を否定しようとするように。
フチアの手のうちで灰となったそれは、宵風にさらさらと砕け散った。
*
ケオルは森を駆けた。宵闇に包まれた木々の影、その闇のうちを。
小石を蹴り、草を踏みつけ、どこへともなく走った。足はもつれ、木の根に躓きながらなお、ふらふらと先を求めた。
作品名:睡蓮の書 四、知の章 作家名:文目ゆうき