小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

仕事より大切なものは

INDEX|1ページ/1ページ|

 
『仕事より大切なものは』

「気にするな」
ほろ酔い気分になった頃、X課長は部下の片桐に向かって静かに言った。
「え!」と片桐は驚いた。
「誰も人のことなんか見ていなし、気にもしていない。忘れろ。まあ、会社を去るのも自由だが、残るのも自由だ。繰り返すけど、君の失敗など、誰も気に留めない。まあ、数か月は酒の肴になるかもしれないが」とX課長は笑った。
X課長は優秀で公正明大といわれるが、その一方で、社内のどの派閥にも組みしなかったせいで、結局課長止まりで終わってしまうという見方がある。
 片桐は厳しい叱責を受けることを覚悟で、「飲みながらゆっくり話そう」というX課長の誘いを承諾した。飲みながら厳しい叱責を受けるものと覚悟していた。その叱責が耐えがたいものであれば、言いたいことを言ったうえで、翌日、辞表を叩きつける覚悟だった。 
それが、「気にする必要はない」という一言で拍子抜けしてしまった。
「でも、得意先のキーパーソンであるM部長を怒らせてしまったんですよ。当然、今回の大きな契約も破棄されるリスクがあります」
「怒りに任せて契約を破棄しようとするなら、相手のM部長はそれだけの度量だということであろう。M電気が一部長の感情に任せて会社の舵を切るようなら、それだけの会社だということだ。うちが相手にするような会社じゃない」
片桐は淡々と語るX課長の顔を見た。
「一見弱々しくみえるが、噂どおり公正明大で芯がしっかりしている骨太の人だ」と思った。
「どうだ、もう一軒行くか?」
片桐は何も考えずに「ハイ」と答えてしまった。

X課長が連れて行っていったのは洒落たバー。
「もし、責任を取れと言われたなら、一応弁明したうえで辞表を出すつもりでした」と酔いが回った頃、片桐は言った。
「そんなことだと思っていたよ。君も顔はまるで自殺する人間のように悲壮感が漂っていた。もっとも、僕は自殺する人間の顔を見たことはないけどね」とX課長は笑った。
「今回のような大きな失敗は初めてでした。むしゃくしゃして恋人に八つ当たりして喧嘩になりました。挙句の果てに『お前と別れたい』と心にもないことを言ってしまいました」
「恋人と仕事、どっちが大事だ?」とX課長は聞いた。
「課長は?」
「聞くまでもない。女だ」
X課長の部下になって五年。一度も女の話をしたことがない。
「てっきり仕事と答えると思いましたよ」
「いいか、いい女と思えるのに巡り合えるのは数回しかない。いい女だと思ったら、仕事のことも、親のことも、世間も、何も考えずに捉まえろ」

部屋に戻った後、片桐は恋人に電話してみた。
もうじき午前零時になろうとしている。
もう寝たのではないかと心配したが、しばらく呼び出し音が鳴った後で、彼女は電話に出た。
「起きていたか?」
「これから、寝るところよ」
「話があるけど、いいか?」
「どんな話よ?」
「この前のこと、覚えているか?」
「この前って、どんなことよ。別れるといったこと?」
「そうだよ」
「本当に別れたいの?」
「ごめん、悪かった」
「私なら気にしていないの。きっと何かあったんだと思った。でも、慰めの言葉が見つけられなくて、ごめん」
「仕事で少しトラブルがあった。で、何だかいらついてしまった。悪かった」
「素直ね」
「今日、ある人に言われた」
「何を?」
「仕事よりも大切なものがあると」
「何よ、仕事よりも大切なことって?」
「それはこの次に話す。お休み」と言って片桐は電話を切った。





作品名:仕事より大切なものは 作家名:楡井英夫