一面のタンポポはどこへ
木が一本立っている。
実に大きなこの木の根本に、クスノキという看板がある。頭上に広がる大樹の葉は一枚一枚きちんと分かれているのに、一つの布のように重なって、太陽の光を通さない。風が横から吹き、葉の布が大きく揺れる。彼女のスカートも揺れる。風向きは東だ。揺れた布は隙間を作り、彼女の黒く短い髪を照らし、まっすぐ伸びた光の柱が暗い根元を照らし、黒い世界に色を出した。じめじめした苔はその光を嫌うようで、彼女は上を向いて微笑んだ。もう一度、風が吹く。風向きは西だ。今度は風と共に雨が降ってきた。布が揺れ、隙間を雨水が柱となって降ってくる。水が乗った葉は、自身とは違う雨水の重さに耐えきれず、水を地面に落とす。定期的にそれが繰り返され、柱となって降る雨とは別の不規則で規則的な雨水が彼女の近くに落ちる。その一つが彼女の白い肌に突き刺さると、すっと浮き上がり、宇宙にいるときに見られる水球のように、彼女の腕にとどまった。伸ばしていた腕を少しふると彼女の匂いと彼女の細胞が混じりだし、重力に負けた水は苔の上に落ちた。苔は嬉しそうにそれを吸収した。
また風が吹いてきた。風向きはわからない。葉の布は揺れない。彼女のスカートも揺れない。けれど風は確かにある。実にぬるく、不愉快な風だ。彼女がいる木の根元には雨も光もない。空気は乾燥し、地面の苔は苦しそうだ。
暗い影の中だけを見ていればわからないが、彼女の後ろには黄色い綺麗なタンポポが一面に咲いている。その色は緑と黄色の二色で作られていて、その二つの色は混じることなく別に存在している。向こうに見える山との境界までこのタンポポは続いている。暗い木の根元、どこか重いイメージを持っているその場所から出て、その明るい広場に行けば、彼女の気持ちにも何らかの変化、特に明るい気持ちのようなものが現れるかもしれないが、彼女はそこから出ていかなかった。苔を一人にするのを惜しんだのではない。大勢のタンポポは彼女を歓迎し、招いている。それでもそこにいる。木の皮は黒い顔のように見え始め、その顔と彼女は話し始めた。そこに会話の内容はない。
「タンポポはなんてきれいなんでしょう」
小さくつぶやいた。けれど、そのつぶやきと反するように顔は微笑んでいない。あのタンポポはいつか消えるのだ。その消失は幻想的なものなのか、もしくは綿毛になって空に舞い、どこか遠くへ消えてしまう、そういう現実的なものなのか。どちらにせよ、簡単に消えてしまうあの花達。
「きっと私がそこに行ってしまったら黄色い花は消え、白い綿毛になるんだわ」
彼女はやはりそこから動かなかった。
タンポポ畑の中に黄色と緑以外の色を見つけたのは彼女が木の皮との会話を終えてからしばらくたってからだった。その間、クスノキは揺れることなく、その腕を大きく伸ばし、そこから伸びる木の葉が作る影が彼女の白い肌を黒く染めた。地面と同じ色に染まった彼女の腕。つまり、彼女はこの影と同化し始めているのだ。外側から彼女の腕をそめている黒さは彼女の体の内側まで染めるようで、心臓の付近まで伸びてくる。もう少しで届いてしまう。この少しの距離が彼女に限界突破をさせずにいた。心臓を突き破り、血の中にしみ込んだ黒さが全身に回れば、彼女の体は限界に到達するのだ。それが何を意味し、彼女の体に何の変化をもたらすのか、彼女はそれを知らなかった。曖昧なイメージとしては体の中を走りまわっていた虫が体のいたるところから皮膚を破り、飛び立つ、そんなものだった。
タンポポは風に揺れている。木の根元には吹かない風が向こうに視覚的に表れている。やはりこちらとあちらは違う時間が流れているようだ。よく現代人が昔に戻るタイムスリップを題材にした映画や小説があるが、違う時間に行きついた時点でその主人公の時間とその時代の時間も止まってしまうのではないかと考えるようになった。その考えを現実の世界で確認できるとあって、彼女の中に一歩影からとびでてみようかという考えを浮かばせる。けれどやはり消えてしまうのを恐れて一歩後退する。影と光の境界線よりずっと前でたたずんでいる。
そういえば、あの黄色と緑の以外の色は何だったのだろうか。彼女は何か苦しいものが彼女の意識を支配することで、彼女の足をとどまらせ、この木の根元につなぎとめているのだ。その何かがあのタンポポの中に紛れ込んでいるあれだと無根拠に思い込んだ。彼女の姿に似たその何かは黄色いタンポポの中からむくっと起き上がり、顔をこっちに向けた。スカートの裾を握る。透明に繋ぎ止められているスカートは青色だ。今すぐあっちに行って抱きしめたい。あれはそういう対象なのだ。けれどあの対象は同時に彼女をこの暗い根元につなぎとめているものだと思い込んだことにより、あれに触れてはその恐怖のようなものを給油するようなものだ。さらにあそこへ行けば、タンポポは消える。その消失はあの人の存在も消える。白い綿毛に混じってどこかへ行ってしまう。次に会えるまで彼女はこの暗い根元に居続けなければならない。タンポポが消えてしまってはこの光と闇の境界も消えてしまうのだ。けれど彼女はあの男のことをこのまま離れて見続け、手放したくはなかった。
風が吹く。
彼女はその風に乗って走り出した。暗い影から出てタンポポを踏みつけて彼のもとへと走ってゆきたい！！！！
彼女を後押しした風はもちろん彼女の後ろから吹いている。その風は彼女を応援するのと同時に、クスノキの葉は彼女の進行方向と同じ向きに広げた。太陽の光と緑の布は協力し、影を作り、彼女を逃がすまいと手を伸ばす。地面にいる無力の苔でさえ、足元の地面をじめじめした自身の体で覆い、彼女を引き留めようとする。
すべての彼女以外の物は引き留める。
彼女は走る。買ったばかりの靴はスカートをなびかせる風を生むために前に進む。後ろになびいたスカートを押しもどすように彼女の後ろから風が吹いている。誰かが背中を押したように彼女の体は前に進む。そのだれかは恐ろしくおびえているに違いない。その力をありがたく受け止め、彼女は走る。頭上の布は足元の影と共に伸びてくる。彼女の足元数センチ先まで広がる影は彼女の速度と同じで進む。このまま進んでも追いつけないのかもしれない。それならと、早くしてみる。影はそのスピードについてくる。ならば遅くしてみてはどうか。影はスピードを落とさない。結局は彼女と影は結びておらず、ただ彼女を逃がさないように広がる闇でしかない。けれどあきらめるわけにはいかない。この彼女の行動に影響されないものから逃げなければ、彼に触れることはできない。彼に触れなければ。それしか確かなことがない。他のすべては彼女の妄想か、彼女の力の及ばないもので、現実ではないのだ。手の届く範囲にあるものはただ一つしかなく、彼女の走る体さえ、確かなものではないのだ。あの人のところでしか、生きていけないのだ。確かなものに触れて初めてこのわけのわからない気持ちをつかみ、投げ捨てるなり、つぶすなり、受け入れるなりできるのだ。苔と木の顔との自問自答の生活など、一人でわかった気になっただけだ。確かなものなどどこにもない。
実に大きなこの木の根本に、クスノキという看板がある。頭上に広がる大樹の葉は一枚一枚きちんと分かれているのに、一つの布のように重なって、太陽の光を通さない。風が横から吹き、葉の布が大きく揺れる。彼女のスカートも揺れる。風向きは東だ。揺れた布は隙間を作り、彼女の黒く短い髪を照らし、まっすぐ伸びた光の柱が暗い根元を照らし、黒い世界に色を出した。じめじめした苔はその光を嫌うようで、彼女は上を向いて微笑んだ。もう一度、風が吹く。風向きは西だ。今度は風と共に雨が降ってきた。布が揺れ、隙間を雨水が柱となって降ってくる。水が乗った葉は、自身とは違う雨水の重さに耐えきれず、水を地面に落とす。定期的にそれが繰り返され、柱となって降る雨とは別の不規則で規則的な雨水が彼女の近くに落ちる。その一つが彼女の白い肌に突き刺さると、すっと浮き上がり、宇宙にいるときに見られる水球のように、彼女の腕にとどまった。伸ばしていた腕を少しふると彼女の匂いと彼女の細胞が混じりだし、重力に負けた水は苔の上に落ちた。苔は嬉しそうにそれを吸収した。
また風が吹いてきた。風向きはわからない。葉の布は揺れない。彼女のスカートも揺れない。けれど風は確かにある。実にぬるく、不愉快な風だ。彼女がいる木の根元には雨も光もない。空気は乾燥し、地面の苔は苦しそうだ。
暗い影の中だけを見ていればわからないが、彼女の後ろには黄色い綺麗なタンポポが一面に咲いている。その色は緑と黄色の二色で作られていて、その二つの色は混じることなく別に存在している。向こうに見える山との境界までこのタンポポは続いている。暗い木の根元、どこか重いイメージを持っているその場所から出て、その明るい広場に行けば、彼女の気持ちにも何らかの変化、特に明るい気持ちのようなものが現れるかもしれないが、彼女はそこから出ていかなかった。苔を一人にするのを惜しんだのではない。大勢のタンポポは彼女を歓迎し、招いている。それでもそこにいる。木の皮は黒い顔のように見え始め、その顔と彼女は話し始めた。そこに会話の内容はない。
「タンポポはなんてきれいなんでしょう」
小さくつぶやいた。けれど、そのつぶやきと反するように顔は微笑んでいない。あのタンポポはいつか消えるのだ。その消失は幻想的なものなのか、もしくは綿毛になって空に舞い、どこか遠くへ消えてしまう、そういう現実的なものなのか。どちらにせよ、簡単に消えてしまうあの花達。
「きっと私がそこに行ってしまったら黄色い花は消え、白い綿毛になるんだわ」
彼女はやはりそこから動かなかった。
タンポポ畑の中に黄色と緑以外の色を見つけたのは彼女が木の皮との会話を終えてからしばらくたってからだった。その間、クスノキは揺れることなく、その腕を大きく伸ばし、そこから伸びる木の葉が作る影が彼女の白い肌を黒く染めた。地面と同じ色に染まった彼女の腕。つまり、彼女はこの影と同化し始めているのだ。外側から彼女の腕をそめている黒さは彼女の体の内側まで染めるようで、心臓の付近まで伸びてくる。もう少しで届いてしまう。この少しの距離が彼女に限界突破をさせずにいた。心臓を突き破り、血の中にしみ込んだ黒さが全身に回れば、彼女の体は限界に到達するのだ。それが何を意味し、彼女の体に何の変化をもたらすのか、彼女はそれを知らなかった。曖昧なイメージとしては体の中を走りまわっていた虫が体のいたるところから皮膚を破り、飛び立つ、そんなものだった。
タンポポは風に揺れている。木の根元には吹かない風が向こうに視覚的に表れている。やはりこちらとあちらは違う時間が流れているようだ。よく現代人が昔に戻るタイムスリップを題材にした映画や小説があるが、違う時間に行きついた時点でその主人公の時間とその時代の時間も止まってしまうのではないかと考えるようになった。その考えを現実の世界で確認できるとあって、彼女の中に一歩影からとびでてみようかという考えを浮かばせる。けれどやはり消えてしまうのを恐れて一歩後退する。影と光の境界線よりずっと前でたたずんでいる。
そういえば、あの黄色と緑の以外の色は何だったのだろうか。彼女は何か苦しいものが彼女の意識を支配することで、彼女の足をとどまらせ、この木の根元につなぎとめているのだ。その何かがあのタンポポの中に紛れ込んでいるあれだと無根拠に思い込んだ。彼女の姿に似たその何かは黄色いタンポポの中からむくっと起き上がり、顔をこっちに向けた。スカートの裾を握る。透明に繋ぎ止められているスカートは青色だ。今すぐあっちに行って抱きしめたい。あれはそういう対象なのだ。けれどあの対象は同時に彼女をこの暗い根元につなぎとめているものだと思い込んだことにより、あれに触れてはその恐怖のようなものを給油するようなものだ。さらにあそこへ行けば、タンポポは消える。その消失はあの人の存在も消える。白い綿毛に混じってどこかへ行ってしまう。次に会えるまで彼女はこの暗い根元に居続けなければならない。タンポポが消えてしまってはこの光と闇の境界も消えてしまうのだ。けれど彼女はあの男のことをこのまま離れて見続け、手放したくはなかった。
風が吹く。
彼女はその風に乗って走り出した。暗い影から出てタンポポを踏みつけて彼のもとへと走ってゆきたい！！！！
彼女を後押しした風はもちろん彼女の後ろから吹いている。その風は彼女を応援するのと同時に、クスノキの葉は彼女の進行方向と同じ向きに広げた。太陽の光と緑の布は協力し、影を作り、彼女を逃がすまいと手を伸ばす。地面にいる無力の苔でさえ、足元の地面をじめじめした自身の体で覆い、彼女を引き留めようとする。
すべての彼女以外の物は引き留める。
彼女は走る。買ったばかりの靴はスカートをなびかせる風を生むために前に進む。後ろになびいたスカートを押しもどすように彼女の後ろから風が吹いている。誰かが背中を押したように彼女の体は前に進む。そのだれかは恐ろしくおびえているに違いない。その力をありがたく受け止め、彼女は走る。頭上の布は足元の影と共に伸びてくる。彼女の足元数センチ先まで広がる影は彼女の速度と同じで進む。このまま進んでも追いつけないのかもしれない。それならと、早くしてみる。影はそのスピードについてくる。ならば遅くしてみてはどうか。影はスピードを落とさない。結局は彼女と影は結びておらず、ただ彼女を逃がさないように広がる闇でしかない。けれどあきらめるわけにはいかない。この彼女の行動に影響されないものから逃げなければ、彼に触れることはできない。彼に触れなければ。それしか確かなことがない。他のすべては彼女の妄想か、彼女の力の及ばないもので、現実ではないのだ。手の届く範囲にあるものはただ一つしかなく、彼女の走る体さえ、確かなものではないのだ。あの人のところでしか、生きていけないのだ。確かなものに触れて初めてこのわけのわからない気持ちをつかみ、投げ捨てるなり、つぶすなり、受け入れるなりできるのだ。苔と木の顔との自問自答の生活など、一人でわかった気になっただけだ。確かなものなどどこにもない。
作品名：一面のタンポポはどこへ 作家名：晴(ハル)