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みやこたまち
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novelistID. 50004
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The Actor

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雑踏を噴出し、また排出する駅ビル前の地下階段は、通り沿いのショウウインドウに幾重にも反映していたが、それらも全て冬の中にあった。
 開演の挨拶を済ませたばかりの男は、もともと毛皮だったのか、それとも飼い猫の毛がついてしまっているのか分からないコートをだらしなく羽織り、対向してくる人々と眼を合わさぬように、肩口から切り込んでいった。先ほどまで、底光りするスーツを着こなし、舞台中央で泰然と背を反らしていた彼はまだ若く、老女優にホストのように仕えた褒美として今回の役どころを与えられただけなのだ、というゴシップは大方事実だった。
 演目はくだんの老女優が主宰する劇団の研究発表会という形式をとり、午前の部が、老女優を主役とした群集劇「ジゼルの森」、そして午後の部が、男女一名ずつがロミオとジュリエットをそれぞれ一人芝居で演ずる事になっている。現在はおそらく、老女優が子供達を追い掛け回している頃だろう。
 文化交流センターの吹き抜け大ホールは閑散としていた。エスカレーターを昇っていくと、ビル群は水平方向に後退していき、その向こうからは緑の津波が押し寄せていた。高いところから見れば、都会は地べたに貼り付いたかさぶたのようだった。町を脅かし、それでいて決して境界を越えようとしない森のさらに向こうには、これらの一切を飲み込み尽くすだけの巨大さで燃え落ちようとしている空がある。
 男はエスカレーターを降りて、奥まった壁にうがたれた非常階段室へと、コートをはためかせて入っていった。階段は両側の壁に肩を擦り付け、三段先の階段板へ手を着かなければ昇ることができないほど急角度で、半球形の天窓に向かって続いていた。

 「もう間に合いませんよ。着替える時間だって…」
 演出家がうろたえている。舞台袖の楽屋の中央にはコタツが年中出しっぱなしで、彼の衣装だけがだらしなく座椅子を占領している。

「いいよ。このままで出る。どうせ台詞も動きも覚えちゃいないんだ。ジュリエットは上手くやったんだろ?」
 男はコートのポケットの中に手をつっこんだまま、しかし張りのある声で言った。演出家は男の衣装を手の中でもみくちゃにしながら鼻をすすった。
「知らない。私はあんな本を書いちゃいないし、あんな演技を要求した事も無かった」
「何をいまさら。あんたが見たかったものを見たかった通りに演じたんだろ。だったら演出家冥利に尽きるってもんじゃないか」
 鼻水と汗とで溺死体のようだった演出家は。喘ぎながら男に掴み掛かってきた。
「私が見たかったんじゃない。先生が、あの婆が見たかったんだ。私は、利用された。そう利用されたんだ」
 男はポケットの中から焼き鳥の串やら、パチンコ玉、外れた馬券や、クラス会の案内状などを取り出して、大きくため息をついた。
「甘いな。あの婆さんの考えそうな事だ。最近じゃあの欲惚け婆は大層欲求不満だったからな。あんたは、あの女優を消すお手伝いくらいしか出来なかった。そうだろ?」
 ベルが鳴った。
「開演かな。それともどっか燃えてるのかな?」
 男はタバコをくわえてそう言うと鯉のように口をぱくぱくさせた演出家に向かってへらへらと笑いかけ、手にしていたポケットの中の屑を丸めて、その口の中に押し込んだ。
「じゃ、行ってくるよ。俺だってそろそろ独り立ちしないとね」
 口や鼻から血を噴出している演出家を残して、男は焼肉のタレが染みついたコートを羽織ったままで舞台に飛び出していった。

「がんばってー」
 下手前列から聞いたことのある声がかかる。そこには幼稚園の、小学校の、中学校の、高校の、演劇学校の、アルバイト先の、知人達が集合していた。
「試しているのか。そうやって自分のした事が大した事ではないと安心したいとでもいうのか」
 男は口の中でそう唱えた。それはうろ覚えの台詞の一節のようだった。
「信実の愛は気高いので試されるのを嫌うのだ。ジュリエット。運命は受け入れてこそ価値を持つものなのではないのか。臆病な亀は生涯甲羅から出てくくる事の無いまま老いていく。けれども貴方がそうしたいというのなら私は止めない。亀の甲より年の功。若さが向こう見ずでなかったのなら、若さに一体何の意味があるだろう…」
 男は一息でそこまで言いきって、その下らなさか加減に舌を出した。
「こんな事を言う為に自分はいままであの脂肪と白粉の迷宮の中をさまよっていたわけではないだろう」
 この文化交流センターの向かいのビルの地下で開催されていたクラス会。彼らは男の芝居を楽しみにしていると言っていた。隣の部屋もその次の部屋でも、その向かい側の部屋でも、男のクラス会は開催されていた。同日同時刻。丁度、この舞台が見られる時刻には、一通りの宴席が終わって中締めが出来るように計画された六つのクラス会。
 男は自分が修得した動きを反復してみる。手を上げて背伸びの運動から、ハイ。一ニ三四五六七八…。馬鹿馬鹿しい。男は一切の動きを止め、おもむろに、ソファーに歩み寄った。この唯一のセットは、なぜか場みりを外れ、スポットの当たらない隅に斜めに置き去りにしてあった。ジュリエットも使ったはずのローマンカウチだ。ねとつく赤い液体が生乾きのままこびりつき、コルセットと引き裂かれたレースが、何かを覆い隠すかのように放置してあった。男はゆっくりとソファーに片足を乗せ、客席を見据えた。一瞬、コートがベルベットのマントのような光沢を放った。

「あの懐かしい夢の記憶。それを共有する事の出来ない悲しみ、つまりは絶望に他ならなかった。という訳だな」
 搾り出された男の言葉は、腹式呼吸と天性の声帯と頭蓋骨とによって、危ういところで台詞となった。貪欲な観客達は、チケットの元を取ろうと躍起になって男の一挙手一投足に注意を注いでいる。
「しかし、毒で死なずに剣で死ぬ事になろうとは、愚にも突かぬ手違いも甚だしい。ぜんたい、ジュリエットと肉の契りも交わさぬうちに互いに骸となって添い遂げたところで、何の楽しみがあろうか。俺はまだこうして生きている。追われている。愛しい人の骸はまだ暖かい。俺の成すべきは、今生の契りを交わす事。ジュリエットは死んだ。しかし肉が朽ちるまでにはまだ間がある。今こそジュリエット。俺達は一つになろう。そしてその記憶を持って私はお前を永遠としよう。そして俺もまた永遠となろう。二人でこのジゼルの森を脱出するのだ。そして、
時の無い世界へ共に行こう」

 男の芝居の間に席を立った観客は誰一人いなかった。
 舞台メークを落とし、パーティー用のメイクをようやく済ませた老女優も、舞台の袖で微笑みを凍りつかせていた。
 舞台にはジュリエットの骸が、いや、かつてジュリエットだった新人女優の骸が、轢断されたかのように散乱していた。男は、日没直前の茜色に染まったソファーの上に、全裸で横たわった。男が瞼が閉じると、舞台は暗転した。そして、静寂は終わった。

 終わり
作品名:The Actor 作家名:みやこたまち