東京降車
東京には多くの駅があり、駅毎に大きな街があり、人がいて、それぞれの街がそれぞれに入り組んでいた。だが、そんな東京に暮らしていた時ですら、三逸の行動半径は、結局、この町の広さを越えることは無かった。
この町は、ある時、凄まじい勢いでやってきて、三逸を否応なく取り囲み、三逸にとっての、唯一の現実へと成り代わった。そんな風に自分を規定したこの町が、三逸は嫌いだった。
三逸にとっての東京は、定期入れの中の路線図でしかなかった。結局、最後まで三逸は、東京のそこここが、どんな位置関係にあるのかを知らないまま、下りの新幹線に乗らねばならなくなった。電車で移動するとき、三逸には街の方が勝手に移動しているのだとしか、感じられなかった。だから、電車の中では考えごとができず、無秩序に過ぎていく風景を監視し続けながら、恐ろしかった。
路線は時折地上を離れ、ビルの三階の高さにまで持ちあがった。車窓から見える街の華やかさはいつも、滑りこむホームの素っ気無さ(または、ぎっしりと立ち並ぶ人々と自分とのあまりにも遠い距離)に掻き消された。そして降り立った街はもう、あの車窓から見えた街では無いのだ。靴裏のいびつな感覚。この変質はきっと改札のせいだったのだと、三逸は思う。
奪い取られた定期券が返却されるまでのわずかな時間が三逸はいつも不安だった。
「東京で暮らすための許可証を奪われたままになったら、僕はこの街でおぼれてしまう。一瞬にして(そう。電車で移動している間の気の遠くなるような時間は、降車した途端に限りなくゼロに近づいた。電車の中で僕はひたすら待ちつづけるだけの時を過ごした。それは、僕の人生の保留期間だ)次の駅へ到着するたびに、定期券は身代わりのダイビングを試みる。その定期券が僕だったのだ。そして、そのまま水底から浮上できなかったとしても、やはりそれが僕だったのだ」
東京に何があった?
激しい雨の中、百貨店に掛け込んだ三逸は、二階にある混雑した喫茶室で自問した。
この町以上の何があったというのだろう。
この町。
駅が一つしかなく、駅周辺にだけ店があり人がいて、半日も歩けば知らない路地は無いというこの狭い町で二十年を過ごした三逸には、外の雨がどの路地でどんな雫を垂らし、誰の服にどんな跳ねを上げ、どんな風に下水へ吸い込まれて行くのかまで、見えるような気がした。
「つまらない町。大きな店はどんどん潰れて、今は解体屋のプレハブばかりになった継ぎ接ぎだらけの町。バスに乗って市街へ来る。その途中の道まで僕はもう諳んじているじゃないか」
三逸はそんな事を考えながら、机の上に今日の買い物を並べ始めた。修理した万年筆、電池を入れ替えた懐中時計、注文しておいた書籍3冊、新たに注文した2冊分の伝票、知り合いが個展を開いている画廊の引越し先のメモ、猫の餌、ホルベインのチタニウムホワイト(大)三本、深夜映画の前売り券、1日使い捨てコンタクトレンズ50日分、ウイザーアンドニュートンの携帯水彩絵の具のフッカーズグリーン……
バスを降りて三十分で全てが終わった。鞄にはもうレシート一枚入るゆとりはない。バスターミナルに戻る途中で、突然雨に降られたので、エスプレッソの美味しいこの喫茶店へ駆け込んだのだ。この町にはもはや、選択の余地は無いのだと、三逸は思った。それでも、三逸は自分の好みなり、物理的距離なりの諸要素を測り、何らかの選択を行っていたはずだった。だが、三逸にとっての選択とは、悩む楽しさであり、かつまた、決められないもどかしさであるはずだった。このもどかしさに焦れて、三逸は東京から離れた。そして今再び、あのもどかしさの中にあった筈の可能性を羨んでいた。財布には未だに、擦りきれた路線図が忍ばせてあった。小さな机に店開きをした三逸は、1度も顔をあげずにじっと路線図を見つめていた。その目から輝きが失せ、身体を小刻みに震わせながら、三逸は路線図を見入っていた。
だが、いつまでそうしていられただろう。ため息と共に立ちあがり、一切合財を鞄に詰め込んだ三逸は、あらかじめポケットに用意していた代金をカウンターに置いて店を出た。
と、外は黄金色に輝いていた。
降り続いてると思っていた雨は上がり、傾きかけた太陽が濡れた地上のことごとくに反映していた。どこにも影の無い風景。そして東の方は、これまで見たことも無いほどの大きな、真っ青な空が圧倒的に支配していた。
「あのビルが解体されたせいだ。しかし、これは一体何処の風景なのだろう?」
三逸はそう言いながら、沸き立ってくる微笑を押さえきれなかった。そして鞄を肩から下げると、光の中を駅に向かって歩いて行った。
翌日、走行中の中央線のドアが開けられるという悪戯があり、ほんの少しだけダイヤが乱れた。さらに、遺失物取扱除には、いびつに膨らんだ鞄が届けられた。本の注文書から持ち主の名前と連絡先は分かったが、問い合わせの無い遺失物は、持ち主不肖として処理される。
この二つの出来事は、あまりに些細でありふれた事件だった。そこに、一人の男の失踪を見出した者は誰一人いなかった。
三逸民夫は、首尾よく降車できたのだろうか? それとも未だに靴底のいびつな感触に悶えているのだろうか。
おわり