優しい嘘
口火を切ったのは僕だった。赤く染まった夕日が彼女を照らす。逆光に照らされていた彼女のロングヘアは光を帯びていた。
彼女は真っ直ぐ僕をみつめてる。次の言葉を待つように、しかし唇は僅かに震えていた。
「理由を聞いて良い?」
物腰の柔らかい態度で彼女は言った。僕たちは高校生。間もなく卒業を控える僕は一つの大きな決断を下した。それは残酷なのだろうか。
彼女は一年年下でまだ未来がある。僕は違って就職の道を選んだ。地元の工業ミシン工場で働くつもりだ。
彼女はとても聡明でそして責任感が強い。誰に対しても愛嬌を振りまく。かと思えば、時には生徒会の役員として、生徒を支える立場となることもある。
いつから僕は彼女と別れたいと思ったのか。彼女の進路を聞いてからだろうか。生徒会が忙しくて会えなくなったからだろうか。いや違う。僕にとって彼女は眩しかった。将来、僕は彼女の傍にいることができない。僕が邪魔になる。そう思った。
彼女は地元の大学へ進学すると言った。だけど、僕は知っている。
彼女はもっと遠くの、それも僕たちの学校では考えられない場所を目指してることを。
僕の住む街は小さい。高校生のたまり場となってるのは地元の商店街だった。そこの一角にある書店で、偶然彼女を目にした。僕は思わず隠れた。彼女が何の本を探しているのか興味があったからだ。あくまで彼女に気づかれない位置でこっそりと見つめていた。すると彼女は一冊の赤本を手にした。その本に書かれた大学の名前なら僕もよく知っている。地元からかなり離れている。だけど、彼女からその大学の話を一度も耳にしたことはなかった。
彼女は五分としないうちにその本を店員に持っていき購入した。そして、さも何事もなかったかのように書店から立ち去った。
僕のために進路先を決めてしまっていいのだろうかとそれからずっと考えていた。僕は今でも彼女のことが好きだ。だけど、彼女の道を僕が閉ざしてしまうことにもどかしさがあった。
「他に好きな人ができた」
すると彼女は顔を歪ませた。そして、彼女は俯き体を震わせた。僕は彼女をのぞきこむようにしてそっと体を動かした。彼女は涙を流していた。それは頬を伝わり地面へとするりと落ちた。彼女の体温に触れてた涙がアスファルトの冷たさに染み込んでゆく。彼女は声もあげずただ俯いていた。
「私もね好きな人ができたんだ。あなたと違って本音を言ってくれる彼氏が」
いつの間にか彼女は僕を見据えていた。頬に涙の後が残っていた。僕は見透かされているのだろうか。僕は他に好きな人なんていない。彼女、ただ一人が好きだ。
彼女はきっと他に彼氏はいない。そう思った。彼女が涙を流している理由を考えると一目だった。彼女の言葉は恐らく本音を言って欲しい。悩みがあるなら打ち明けて欲しい。直接言葉にして欲しい。それがアスファルトに染みた涙の理由だろう。
「僕のことは忘れて欲しい」
「本音を言ってよ!彼女なんてできてないんでしょう!あなたは嘘をつく時、手で頬を掻くクセがあること知ってるんだよ」
そんなクセがあることに全然気づかなかった。彼女が僕に強く言葉にするのは初めてだった。だから僕は思わず口を開いた。
「赤本」
「え?」
「進路先は本当は地元じゃないんだよね?書店でかなり遠くの大学の赤本を買っていたよね。僕のことはもうどうでもいいの?」
今になって気づいた。彼女が眩しかったからではなく、本当は僕が寂しかったんだ。僕は彼女と離れるのが怖かったんだ。一方的な我侭だ。
すると彼女は何故か微笑んでいた。肩を震わせていた。先程とは違って口元を手で押さえていた。何故か笑いをこらえているようだ。
「あれは友達の誕生日プレゼントよ」
「え?」
「友達に感謝の気持ちを込めて手料理を作ろうとしたの。そしたら、友達は止めて欲しいって真顔で言われちゃって」
僕は知っている。彼女は何故か料理が壊滅的にできない。僕も料理は作れない。この先どちらが作るかで笑い話になったことがあった。
「私が何がなんでも手料理をプレゼントしたいって言ったの」
「また、なんで?」
「それは、いつかのために……」
それを聞いて少し嬉しくなった。
「結局、終始真顔で断られたから、彼女から赤本を買って欲しいって言われたの」
「それを僕が偶然みかけたんだな」
「そういうこと」
プレゼントが赤本なんて、想像もしていなかった。
「あのね」
彼女の眼差しは真剣だった。
「悩みがあったら打ち明けて欲しい。私はあなたの彼女だよ。本音も言えない間柄にはなりたくないの。今回みたいに誤解したまますれ違いになって別れ話になることもあるんだよ」
「ごめん」
何も言えなかった。
「まだ聞きたいことがあるの」
彼女は恐る恐る僕を見つめた。
「何?」
「本当に好きな人がいるの?」
彼女は待っていた。何を伝えたらいいのか想像がついた。だから、僕は彼女に指をさして抱きしめた。
「好きだよ」
僕は思わず頬を掻いた。
「嘘つき」
彼女は僕の耳元で呟いた。