海の藻屑
海を漂う板のような人間だと思っている。
無気力というか、忍耐力がないというか、適当というか、自分勝手というか。企業が採用したがるタイプの人間の真逆、とでも言えばいいのだろうか。
将来の夢も希望も特にない。友達も少ない。信念もない。苦労は売ってでもするな、後は野となれ山となれ。責任感の欠片もない人間である。悲しいかな、私のことである。
小学校では手芸部に所属していた(クリスマスの時期にケーキを作って食べられる唯一の部活だった)。中学はバレーボール部に所属し、一年でやめた。高校で始めたヒップホップダンスは二年続いた。大学の時は文化祭実行委員に所属したが、一年経たずにやめた。映画研究同好会は三回ほど顔を出したら行かなくなった。他にもいくつか顔を出したが、長続きしなかった。とにかく、飽きっぽいんである。私からすると、三歳からずっとこれを続けています、というスポーツ選手や、新卒で入った会社で定年まで勤めあげるサラリーマンなどはまるで異国の人のようである。ちなみに私は新卒で入った会社は、一年ももたなかった。根性もないのである。
石の上にも三年という言葉がある。「石の上にも三年とは、つらくても辛抱して続ければ、いつかは成し遂げられるということ。冷たい石でも三年間座り続ければ暖まることから転じて、何事にも忍耐強さが大切だということ。(※1)」
このことわざをベースにしたような説教をしてくる中年がたまにいる。静かに耐え忍ぶことが美徳とされている日本人が好きそうな言葉であるが、私はこれを聞くたびに強い違和感を覚える。
そもそも、辛くても耐え続ければいつかは成し遂げられるというのは都合のいい幻想に過ぎない。妄想といってもいいだろう。成功した数人の後ろには、夢が叶わなかった大勢がいる。もちろん、辛抱して続けることが馬鹿らしいなどと言っているわけではない。何かをひたむきに続けることができるというのは才能だ。重要なのは努力の矛先が正しい方向を向いているかどうかだ。間違った方向に進んでいてはいつまでたっても目的地にはたどり着けない。島に行くのに、ベンツでは海は渡れない。
人には向き不向きがある。誰とでも円滑にコミュニケーションを取れる人もいれば、細かい作業を黙々と集中して続けられる人もいる。どちらが上か下かなどはない。存在する人だけ、その人が得意とする事柄がある。また、コミュニケーションを取るのがうまい人は正確で細かい計算が苦手だったり、逆に正確さと緻密さを求められる作業を得意とする人は人付き合いが苦手だったりして、非常におもしろい。
ごくごく稀になんでもできるスーパーマンのような人もいるが、その欠点の無さから逆に敬遠されていたりするので、人間というのは欲張りなのか無欲なのかわからないなあと思うのである。
三年間も冷たい石の上に我慢して座って、ただ石が温まるだけならさっさと石から降りたほうがいい、と私は思っている。
それが石ではなく、卵なら温めるべきだろう。
石の上に座っていても、ただ生暖かい石が生まれるだけだが、それが卵なら別だ。卵はいつか孵化する。何が生まれるかはわからないが、やがて生まれてくるそれは自分に変化をもたらしてくれるだろう。ただ座っているだけ、ではなく、やがて生まれる何かの為に温めているのだ、と考えられたら月日の長さも変わる。
私は石の上に三日も座り続けられない人間だが、座ることに意味がないとは決して思わない。石の上に三年座り続けたという事実だけでも大きな財産になるし、評価もされる。できることなら座り続けたほうがいいとさえ思う。だが、座り続けて痔になってしまっては意味がない。自分の未来のためにはじめたことで、自分自身が崩れてしまっては本末転倒だ。
物事を続けるのには忍耐力がいるが、やめるのは勇気がいる。その勇気を出せず、自分自身を壊してしまう人をたくさん見てきた。
別にいいのである、やめても。死ぬわけじゃないし。
周囲の人間がじっと我慢するなか、やーめたと言っておりるのは勇気がいる。自分はなんて忍耐力がないんだ、と自分を責めたり、周囲に責められているように錯覚したり。でもいいのだ。
人生は長い、という人がいる。長いから将来を見据えて考えるべきだ、と。
堅実な考え方だ。だが同時に退屈な考え方だなとも思う。
いつ死ぬかわからない。家に居たって飛行機が墜落してくる可能性もある。災害だっていつどこで起こるかわからない。逆に、明日急に遠い富豪の親族の遺産が転がり込んでくるかもしれないし、一目惚れした人と駆け落ちするかもしれない。
などという妄想に耽る癖が小学生の頃から抜けないせいで、早々にまともな社会人生活からリタイアしてしまった私だが、後悔はしていない。しても仕方ないから。
※1 引用 http://kotowaza-allguide.com/i/ishinouenimosannen.html
古事ことわざ辞典より引用