泥濘のあと
同窓会か? と思われるほど大勢の顔の中、僕はびっしりと水滴がついたアルミサッシにボーダーの長袖Tシャツの背中をぴったりと押し付けられるようにして、何かをオーダーしていた。
「それっ、僕とっ安中とっ海晴のぉ三人だったんだよぉっ」
いや、オーダーではない。僕のすぐ目の前の壊れたベッドの上で少年ジャンプを読み漁る4、5人と、その隣にある電子オルガンの下にもぐりこむようにUNOをしている5、6人の背後から、ぼんやりと煙る別の8人から10人ほどの会話に対する決定的な事実を、僕は何度も叫んでいたのだ。
「だからそれは、僕と安中と……」
何度目かの叫びが、請願じみてきていることに嫌気がさし、僕には、この和やかな喧騒には似つかわしくはなかったのだ。と自覚した。結局、彼らは僕を共有していなかったのだ。何一つ、欲しがらなかった僕のことなどは。
アルミサッシを開けると、生暖かな水滴が髪から滴り始めた。道路には泥が流れてきていた。僕は靴下を脱いで泥濘に降り立った。洗濯物の一つ一つが、額に貼りついて来た。
「ちょうど私も帰ろうと思ってたんだ」
不意に背後から、湿度の高い、聞き覚えのある声がした。
「なかなか抜け出すきっかけが無くって。っていうかどこから外に出られるのか分からなくなっちゃって困ってたんだ。シンマ君が出て行くのが見えたから。ああ、あそこから出られるのかって」
彼女は大きな目をくりくりとさせながら僕を見上げてしゃべった。左右の手に、靴のおもちゃみたいな靴をぶら下げていた。足を踏み出すたび、泥濘に足を取られそうになるので、僕もそのたびにびっくりして、彼女の腕をとって引っ張ったが、彼女はその行為には全く頓着せず、話し続けていた。雨粒が大きな瞳を直接叩き、涙のように流れていた。
「シンマ君とはさ、ちょっと変なお別れだったから気にはなってたんだよね、実は。あ、別に今からそれをやり直すとか、弁解するとかいうのは無しね。気にしてないんだけど、ちょっと引っかかっていたっていうか」
僕は彼女のことを知っていたが、シンマという名前に心当たりは無い。そしてあの部屋にシンマという男がいたかどうかなどということは、思い出したくも無かった。
「この辺りもずいぶん変わったね」
僕は、もう彼女の手を握ったまま歩いていたので、彼女とシンマの秘め事を、のっぴきならないところまで聞かされない前に、今へと連れ戻したかった。
「そうだね。前はこの道路を歩いていくと神社があって、段々畑があって、鉄橋があって……」
僕の記憶には、そんなものは一つも無かったが、訂正する暇もなく泥濘は厚みを増し、ついに道を見失ってしまった。
「少なくとも、道はあったよね。駅までは」
「うん」
僕達はもう膝まで泥濘につかっていた。足裏からは底知れぬ泥濘の感触しかない。このままいけば、あと数メートル先で、僕達は頭の先まで沈むだろう。それは心中のように見えるだろうか? それとも事故として処理されるだろうか?
「あ、シンマ君。こっちこっち」
彼女が首まで泥濘につかりながら口をパクパクさせて僕の袖をひっぱった。とても愛くるしかった。彼女の指差したかったのは、泥面からかすかに突き出た水路の名残らしいコンクリートの縁だった。それは、ずっと僕達の左側の泥に埋もれてあったらしく、勾配か、水路の深さの関係か分らないが、ここで泥濘から顔を出し、僕達の行く手をさえぎるかのように、大きく右にカーブしている。幅は、15センチほどだろうか。このコンクリートの右側、つまり我々が歩いてきた場所は泥濘だ。そして左側は澄んだ水が勢いよくほとばしる幅15メートルほどの水路でその水面までは1.5メートルほどだ。水路の反対側は突然に15mくらいの塀のようになっていて、その継ぎ目から林が見えている。
まず僕がこの15センチの上に立った。それから彼女の、ボーダーのスパッツとトゥーシューズみたいな小柄な足先が、僕の前に降臨した。僕達は、両手でバランスを取りながら進んだ。
しばらく行くと靄が晴れた。すると、このコンクリートの細道は、数キロ先で、銀河鉄道999の軌道のように傾斜を増しているのだと分った。恐怖心が増幅した。彼女の歩みも、心なしか慎重になっているようだったが、やはり動揺は隠せなかったようだ。
「わ」
といって、彼女が右側、つまり泥濘の方へ落ちた。僕もすかさず彼女の方へ落ちる。泥の中で彼女の手を掴まえて、今まで歩いていた15センチメートル上へと押し上げようと、尻を掴む。雨が上がっている。
「やっぱり、きれいな方がいいね」
彼女は僕を踏み台にして、ムツゴロウのように跳躍し、コンクリートを越えていった。僕は慌てて15センチに復帰し水路を覗き込んだが、先ほどよりもすこしだけ濁った水が流れているだけだった。
太陽がまばゆい輝きを覗かせた。目を細めてみると、泥濘の岸と、岸を覆う林に残されたかすかな踏み跡を見つけた。僕はしゃくりあげながら平均台を渡り、ここぞ、という地点で泥濘へとダイブすると、泳いでいるのか走っているのか、眠っているのか、分らなくなった。
市街地に出ると、僕の言葉は全く通じなかった。
「映里砂と、ガルバルニアカフェと、グスミアビルヂングの隣が僕の部屋なんだ」
といくら尋ねてみても肩をすくめられるか、哂われるか、拝まれるかするばかりだった。いつの間にか国境を越えていたのかもしれない。しかし、歩いている町並みは僕にとって親しいものなのだ。
「デジャブっていうんじゃない」
テレビで見たことのある女性アイドルが、四つんばいで泣きじゃくる僕の背後で腕を組んでタバコの煙をプーと吹いていた。
「なんでもいいんです。僕は部屋に戻りたい」
「あなたの部屋なんて知らないわよ」
「いや、知っているはずだ。知らなきゃキミの部屋でもいい」
僕は彼女に飛び掛らんんばかりの勢いで土下座していた。
「マネージャ。次の仕事は?」
でかいサングラスと鞄だけの女が手帳を取り出して答える。
「20分後に地下鉄のキャンペーンなので、もうリムジンがつく頃です」
「じゃ、あなたこの人あのビルへ入れてあげて。いいの。知り合いがいるから。彼にぴったりだと思うわ。ベビーシッター探してたでしょ」
僕は散々礼を言って、彼女は僕を無視して、ボディーガードみたいなでかい男にケツをビルの裏階段の半階分も蹴り上げられて、ちゃちな呼び鈴を押した。
「コスゲ人材派遣から参りましたベビーシッターです」
3歳の金髪の男の子が扉をあけた。
「入れば。このビルにあるものは何でも使っていいことになっている。但し、3階の階段下にある秘密の小箱だけは触っちゃいけない。ビーチクルーザーも、電子分解銃も、バーベキューセットも、使っていいけどあれだけは見てもいけないし、あるということを知っているというそぶりすらしてはいけない。いいね」
「御意」
で、僕は、グスミアビルヂングの住人となった。ほどなくしてこの小箱で一騒動持ち上がるわけだが、それは又のお話。
おわり