三十五年譚
その1
六歳から十二歳までの親友、と呼べる男子が五百メートル東に住んでいた。広大な土地にたまねぎだのジャガイモだの、温室花などを栽培しているファーマーの息子で、当時まだ珍しかった鉄筋コンクリートのプレファブに住んでいた。
私は彼の家に上がったことはない。二人の兄を持つ彼は、北廊下の袋小路を、部屋としてあてがわれていたので、それが恥ずかしかったのかもしれない。彼は大抵、私の家に遊びに来ていた。
私とて、八畳の洋間を妹と共同で使っていて、二段ベッドと二つの机とが床の大半を占めていたのであるが、彼はランドセルを、台所兼食道の掃きだし窓へ放り込むと自転車にまたがり、帰宅途中の僕を追い抜いて、僕の家の玄関先で、僕の帰りを待っているのである。そして、二人で粘土をこねたり、ブロックを積んだり、うとうとと眠ったりしていた。
それ以来、三十五年近くを疎遠のまま過ごしているが、昨晩久しぶりに彼を夢に見た。その情景は、毎朝、彼の支度を待っていた農機具倉庫からの眺めだ。隣には、金鶏、銀鶏、雉などのいる鳥舎があり、その斜向かいの金網越しに、開けっぴろげの台所兼食堂が見える。
彼はいつも急かされながら朝食を採っていた。熱い味噌汁に冷たい牛乳をどくどくと注ぎ、一気飲み干すと、のけぞるように椅子をおり、食卓を潜って掃きだし窓から迸り出てくるのだ。彼の、背負う瞬間をいつも見逃してしまうランドセルを追って、僕も農機具倉庫を飛び出す。金網や、錆びた閂の鉄の臭いは、彼が毎朝飲み乾す牛乳入り味噌汁によく似ていたような気がする。
その掃きだし窓の向こうに、知った顔がぎっしりと連なっていた。一体これほどの人がどうやってこの部屋に入ることが出来たのか、そして、何故、食卓ではなく、じっと庭を見詰めているのかが、私には分らなかった。彼らの瞬きはランダムだったが、とてつもなく複雑な方程式に則っているのかもしれないと思わせるほどに迷いがなく、機械的だった。それは、時折発作のように発生する咀嚼行為にも当てはまった。
私の視界から逸れた顔が、どんな表情を浮かべるのかを思うと、私は片時も、その集団から目を逸らすことはできなかった。だが、その気配は常に私を取り巻いたので、自分の眼球の動きの不自由さが、歯噛みするほど、苛立たしかった。この焦燥は、また、その中に当然あるべき彼の顔が見当たらないことにも起因していた。
私は、血眼になって数珠繋ぎの顔を何往復も見渡した。おぞけるような不和を、後頭部に増殖させながら、ようやく発見した彼の顔は、最も勝手口に近い、後列から二番目の位置にあり、すまなさそうにしていた。彼は瞬きもせず、咀嚼もしていない。ただ、唇の端から、ミルクをだらだらと垂らしていただけだ。食卓だけが、黄昏の陽光に照らされているようにオレンジ色に輝いている。
現在、彼の上の娘が大学生になったと、誰かから聞いた。
その2
小学校から中学校の前半にかけて、恋心を抱いていた女子の顔が、延々と網膜に映っている。長いまつげの震え、黒目勝ちの大きな瞳、少し下がったまなじり、尖った鼻、太い眉、薄く引き伸ばされた唇、そしてショートカット。
今にも涙が零れそうな、それでいて決して、自分の涙を認めないような、そんな表情だけが暗闇に浮かび、私を見つめ続けていた。服装は分らない。黒い背景に黒いタートルネックを着ていたのだとしたら、きっとこんな風に見えるだろう。そして、やけに焦げ臭い。
焼却炉の重たい蓋をあけると、もはや原型をとどめていない彼女のセーターだったものが、やわやわと積もっていた。
僕は体育の時間が終わって戻ってきて、彼女の椅子の背にかかっていた黒いセータを、隠した。ゴミ箱の中へだ。念入りに、なるべくきれいな画用紙の間へ、滑り込ませた。それは、気を引きたい一心だった。だがその先、どうやって名乗りを上げればよいのかが、分らないまま、みんなが泣き、先生はクラス全員に目を閉じるように言った。その時はもう、帰りの会だった。掃除の時間は終わっていた。僕は外の掃除をしていて、戻ってきた教室のゴミ箱は空っぽになっていたから、焼却炉へ走った。黒かったセータは、白い灰の塊になっていた。指先が全部熱かった。そしてゼッケンが真っ黒になった。高い煙突から白い煙がふわふわと漂っているのが見えた。夕焼け? 黒い顔がいくつか流れていった。僕は学校が燃えればいいと思っていた。
彼女は寝込んだらしかった。担任は僕の首筋に爪をたてて、彼女の顔にむかって頭を下げさせた。鼻の奥がキナ臭くなった。クラス全員の前で、僕はずっと、脳みそが焦げていく臭いをかいでいた。
僕の両親が彼女の家に菓子折りをもっていき、そこで僕は再び頭を抑え付けられた。彼女は、自分の両親の背後に隠れて立っていた。裸足の足が見えた。白い花模様のパジャマが、汗を吸って身体にまつわりついていた。額に張り付いた前髪も、潤んで焦点の合わない瞳も。僕はいつのまに盗み見たのだろう。もう、涙は出なかった。そして、彼女は僕を永遠に嫌った。
その彼女の顔だ。だが、その顔が次第に、変化し始めていた。かすかに頬がたるむ。肌が輝きをなくしくすみ始める。まなじりにかすかな皺が刻まれる。輪郭が優しく丸くなる。そして頑なだった表情がまろみを帯びる。瞳が白濁してゆく。
私は、ようやく彼女に許されたような、ようやく仕返しを果たしたような、晴れ晴れとした気持ちになった。
あれから三十五年を経た彼女の顔を、私はもう、見分けることができないだろう。
その3
「信仰でもいいけれど、それを失ったときのことを考えるとね。一度、依存した心が再び独り立ちすることの困難を考えると、つらく苦しい現世でも、信仰なんて代物に関わらないまま生きていったほうが、よほど簡単だと思うね。それに、懺悔して償われ、祝福のうちに惚けているなんて、まるっきり痴呆だ。それは人の生きる姿ではない。人の抜け殻だ。
僕は苦悩を欲している。それを償いたいとは思わないし、出来るはずも無いと考える。苦悩、罪などが購われてしまったら、一体自分に何が残るだろう?
罪があるから信仰があるのではない。日々の罪のいちいちから目を逸らすために、より大儀ある原罪という概念を導入し、それに見合う無制限の救いを、予め与えらえることで、生活を棚上げにしようとする、破廉恥な主客転倒の結果じゃないのか?
所詮、罪と、生きることとは、分け隔て出来るものではない。だから、懺悔がいかに都合の良い制度なのかが分かるだろ?
僕は生きるように罪を犯しつづけるだろうし、罪を犯しつづけることで生きている。僕には罪が必要であり、その罪を自らの肩に背負ったこの重量が必要なんだ。これが僕のアンカーなのさ。最期の綱だ。こいつを外されてしまったら、僕はもう自分ではいられまい。
だから僕は無宗教さ。膝まづく必要も、手を合わせる必要も無いよ」
彼はそう言うと蒼穹を見上げて伸びをした。欠伸をする彼の喉が、こんな風に音を立てたことに、私は気付いた。
「エリ エリ レマ サバクタニ」
六歳から十二歳までの親友、と呼べる男子が五百メートル東に住んでいた。広大な土地にたまねぎだのジャガイモだの、温室花などを栽培しているファーマーの息子で、当時まだ珍しかった鉄筋コンクリートのプレファブに住んでいた。
私は彼の家に上がったことはない。二人の兄を持つ彼は、北廊下の袋小路を、部屋としてあてがわれていたので、それが恥ずかしかったのかもしれない。彼は大抵、私の家に遊びに来ていた。
私とて、八畳の洋間を妹と共同で使っていて、二段ベッドと二つの机とが床の大半を占めていたのであるが、彼はランドセルを、台所兼食道の掃きだし窓へ放り込むと自転車にまたがり、帰宅途中の僕を追い抜いて、僕の家の玄関先で、僕の帰りを待っているのである。そして、二人で粘土をこねたり、ブロックを積んだり、うとうとと眠ったりしていた。
それ以来、三十五年近くを疎遠のまま過ごしているが、昨晩久しぶりに彼を夢に見た。その情景は、毎朝、彼の支度を待っていた農機具倉庫からの眺めだ。隣には、金鶏、銀鶏、雉などのいる鳥舎があり、その斜向かいの金網越しに、開けっぴろげの台所兼食堂が見える。
彼はいつも急かされながら朝食を採っていた。熱い味噌汁に冷たい牛乳をどくどくと注ぎ、一気飲み干すと、のけぞるように椅子をおり、食卓を潜って掃きだし窓から迸り出てくるのだ。彼の、背負う瞬間をいつも見逃してしまうランドセルを追って、僕も農機具倉庫を飛び出す。金網や、錆びた閂の鉄の臭いは、彼が毎朝飲み乾す牛乳入り味噌汁によく似ていたような気がする。
その掃きだし窓の向こうに、知った顔がぎっしりと連なっていた。一体これほどの人がどうやってこの部屋に入ることが出来たのか、そして、何故、食卓ではなく、じっと庭を見詰めているのかが、私には分らなかった。彼らの瞬きはランダムだったが、とてつもなく複雑な方程式に則っているのかもしれないと思わせるほどに迷いがなく、機械的だった。それは、時折発作のように発生する咀嚼行為にも当てはまった。
私の視界から逸れた顔が、どんな表情を浮かべるのかを思うと、私は片時も、その集団から目を逸らすことはできなかった。だが、その気配は常に私を取り巻いたので、自分の眼球の動きの不自由さが、歯噛みするほど、苛立たしかった。この焦燥は、また、その中に当然あるべき彼の顔が見当たらないことにも起因していた。
私は、血眼になって数珠繋ぎの顔を何往復も見渡した。おぞけるような不和を、後頭部に増殖させながら、ようやく発見した彼の顔は、最も勝手口に近い、後列から二番目の位置にあり、すまなさそうにしていた。彼は瞬きもせず、咀嚼もしていない。ただ、唇の端から、ミルクをだらだらと垂らしていただけだ。食卓だけが、黄昏の陽光に照らされているようにオレンジ色に輝いている。
現在、彼の上の娘が大学生になったと、誰かから聞いた。
その2
小学校から中学校の前半にかけて、恋心を抱いていた女子の顔が、延々と網膜に映っている。長いまつげの震え、黒目勝ちの大きな瞳、少し下がったまなじり、尖った鼻、太い眉、薄く引き伸ばされた唇、そしてショートカット。
今にも涙が零れそうな、それでいて決して、自分の涙を認めないような、そんな表情だけが暗闇に浮かび、私を見つめ続けていた。服装は分らない。黒い背景に黒いタートルネックを着ていたのだとしたら、きっとこんな風に見えるだろう。そして、やけに焦げ臭い。
焼却炉の重たい蓋をあけると、もはや原型をとどめていない彼女のセーターだったものが、やわやわと積もっていた。
僕は体育の時間が終わって戻ってきて、彼女の椅子の背にかかっていた黒いセータを、隠した。ゴミ箱の中へだ。念入りに、なるべくきれいな画用紙の間へ、滑り込ませた。それは、気を引きたい一心だった。だがその先、どうやって名乗りを上げればよいのかが、分らないまま、みんなが泣き、先生はクラス全員に目を閉じるように言った。その時はもう、帰りの会だった。掃除の時間は終わっていた。僕は外の掃除をしていて、戻ってきた教室のゴミ箱は空っぽになっていたから、焼却炉へ走った。黒かったセータは、白い灰の塊になっていた。指先が全部熱かった。そしてゼッケンが真っ黒になった。高い煙突から白い煙がふわふわと漂っているのが見えた。夕焼け? 黒い顔がいくつか流れていった。僕は学校が燃えればいいと思っていた。
彼女は寝込んだらしかった。担任は僕の首筋に爪をたてて、彼女の顔にむかって頭を下げさせた。鼻の奥がキナ臭くなった。クラス全員の前で、僕はずっと、脳みそが焦げていく臭いをかいでいた。
僕の両親が彼女の家に菓子折りをもっていき、そこで僕は再び頭を抑え付けられた。彼女は、自分の両親の背後に隠れて立っていた。裸足の足が見えた。白い花模様のパジャマが、汗を吸って身体にまつわりついていた。額に張り付いた前髪も、潤んで焦点の合わない瞳も。僕はいつのまに盗み見たのだろう。もう、涙は出なかった。そして、彼女は僕を永遠に嫌った。
その彼女の顔だ。だが、その顔が次第に、変化し始めていた。かすかに頬がたるむ。肌が輝きをなくしくすみ始める。まなじりにかすかな皺が刻まれる。輪郭が優しく丸くなる。そして頑なだった表情がまろみを帯びる。瞳が白濁してゆく。
私は、ようやく彼女に許されたような、ようやく仕返しを果たしたような、晴れ晴れとした気持ちになった。
あれから三十五年を経た彼女の顔を、私はもう、見分けることができないだろう。
その3
「信仰でもいいけれど、それを失ったときのことを考えるとね。一度、依存した心が再び独り立ちすることの困難を考えると、つらく苦しい現世でも、信仰なんて代物に関わらないまま生きていったほうが、よほど簡単だと思うね。それに、懺悔して償われ、祝福のうちに惚けているなんて、まるっきり痴呆だ。それは人の生きる姿ではない。人の抜け殻だ。
僕は苦悩を欲している。それを償いたいとは思わないし、出来るはずも無いと考える。苦悩、罪などが購われてしまったら、一体自分に何が残るだろう?
罪があるから信仰があるのではない。日々の罪のいちいちから目を逸らすために、より大儀ある原罪という概念を導入し、それに見合う無制限の救いを、予め与えらえることで、生活を棚上げにしようとする、破廉恥な主客転倒の結果じゃないのか?
所詮、罪と、生きることとは、分け隔て出来るものではない。だから、懺悔がいかに都合の良い制度なのかが分かるだろ?
僕は生きるように罪を犯しつづけるだろうし、罪を犯しつづけることで生きている。僕には罪が必要であり、その罪を自らの肩に背負ったこの重量が必要なんだ。これが僕のアンカーなのさ。最期の綱だ。こいつを外されてしまったら、僕はもう自分ではいられまい。
だから僕は無宗教さ。膝まづく必要も、手を合わせる必要も無いよ」
彼はそう言うと蒼穹を見上げて伸びをした。欠伸をする彼の喉が、こんな風に音を立てたことに、私は気付いた。
「エリ エリ レマ サバクタニ」