雑巾
また家庭ではレンタルモップとか化学雑巾だの不織布で出来た使い捨てシートで掃除をし濡らした雑巾を硬く絞ってする拭き掃除もあまり見られなくなったろうか。
忘れもしない寒い冬の学校掃除の時間、ブリキのバケツに水を入れその冷たい水に雑巾浸し絞る。手は感覚が薄れ真っ赤になり、ハーッと息を吹きかけ床をこっちから向こうへと何往復し、また雑巾をあらっては拭いた。雑巾を絞るのを手抜きすると木の床はべちょべちょになったが、綺麗になった床を見て先生はそれを褒めてくれた。
女の子が雑巾を水に浸しそれを絞る。力無い女の子が絞った雑巾は未だ水が垂れるほど、「それ貸してみ」と男の子が取り、ぎゅっと絞るとバケツにチャバチャバっと音を立て水が落ちる。もう良いかと思うと「それ貸してみ」と大人が取り力一杯絞ると最後は水は落ちず腕を伝う一筋となる。
それで拭くと拭いた後の水分はほとんど無く、サッと乾いていく。
今の人達はそんな経験もしなくなったのだろう。
その雑巾を絞る様に愛しさで胸が締め付けられる事も、この情報化現代では少なくなってきただろう。
いつ帰るとも、生きているのかさえ分からない人の帰りをただ信じて待つ思い。
手紙も電話も無く、ただ思う人を待つ胸を締め付けられる思い、苦しさは今の人達には分からない。
「ねえ今どこ?」と携帯から電話をし
「今着いた」ネットでやり取り、少し連絡無ければ直ぐに心配になったり「何してるの?」とまた確認
これではオペラ『蝶々夫人』が夫のピンカートンの帰りを今か今かと待つ情感をアリアで表現出来る歌手は居なくなっても不思議では無い。
「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くやもしほの身もこがれつつ」
藤原定家
こんな思いは今は何処へ
便利と言うには確かにありがたい。しかしそれで心が失われていくのもまた確か。
一度硬く雑巾を絞り、どれだけ絞り切れるか試してみは??
それが案外愛する人を待つ貴女の思いを表すかも知れませんよ。