京香は自由きままに生きる
『京香は自由きままに生きる』
オナミは何かにつけ、ヒロシを呼び出し、飲みに誘う。酔うと必ずといっていいほど京香を罵倒する。
オナミはガネをして化粧も薄く地味な服を着ているので、おばさんにしか見えないが、メガネをとったら意外と知的で悪くはない。かつて美人とあったということを想像できないこともなかったが、みずみずしさが欠けているため、枯れている花のようである。とても美しいとは言い難い。手は鶏の脚のように骨と皮だけである。二十代の初めに恋した男が針金のように痩せた女が好きだと言ったので、必死に痩せたために骨と皮の体になってしまった。その男は実に気まぐれな男で、別れたいがために痩せた女が好きだと言ったのだが、それを真に受け本当に痩せた。すると、男は「本当を言うと、俺はぽっちゃりした女が好きだ。お前みたいな針金のような女大嫌いだ」と罵りオナミの前から消えた。心に深い傷を負った彼女は、人が変わったように仕事に熱中した。親戚の連中が縁談を進めても、耳を傾けず、独身を貫き通してきた。だが、大友ヒロシが現れて大きく変わったのである。一言でいえば、恋をしたのである。三十七歳のオナミは最後のチャンスだと思っている。だが、ヒロシは人妻である京香に心を寄せていた。
今年二十八歳になるヒロシは数年前まで大手の化学メーカーで働いていたが、母親が老齢で介護が必要なため、会社を辞め、地元に戻った。知人の紹介で、地元の高校の臨時教師になり二年が経つ。一年前に『森を育てる会』というボランティアに入り、そこで、京香とオナミと出会った。ヒロシは南欧の男を思わせるような彫の深い顔をしている。大学時代にラクビ―をしたので筋肉質の体型で猛々しいオスを想像させる。オナミはヒロシを一目見た瞬間から好きになったが、あいにくと鶏の脚のような手をしたオナミに、ヒロシは何の興味も示さなかった。ヒロシがひかれたのは美しい天使のような京香である。京香はヒロシの熱い視線に気づいたが、無視した。それがかえってヒロシの恋心を掻き立てた。
「あの女のことをどの程度知っているの? 人妻よ」
オナミがあの女と呼ぶのは京香しかいない。あの女と言うだけでヒロシは京香のことを言っているのだと分かる。だが、なぜ京香を異常なほど嫌っているのかが、ヒロシには分からなかった。まして、その原因が自分にあるとは考えも及ばなかった。ただ単に美しい女に対する嫉妬の表れと高をくくっている。
「知っています。帽子が似合う素敵な人だと思っています」
「帽子! あんなの男を釣るための小道具よ。そんなことも分からないの?」
「仮にそうだとしても、この世に、男と女しかいないんだから、それも良いと思いますよ」
オナミは呆れた顔で、
「あの女は仮面をつけているの。あなたに分からないの? 仮面をとったら、オオカミの顔が現れるわ。赤ずきんの話を知っている」
「オオカミに赤ずきんちゃんが食べられそうになる童話でしょ?」
「本当は違うのよ。赤ずきんがオオカミを食べるのよ」
「どうでもいいことです」とヒロシはつっけんどんに応えた。
「馬鹿ね、あの女は娼婦よ。あなたなんか食われてしまうのよ」
「あんなきれい人なら食われてもいい」とヒロシは朗らかに笑った。
「そんなことは私が許さない。よく、お聞きしない。あなたには、もっとふさわしい人がいる」
「どんな人ですか?」
「たとえば私よ」
ヒロシはあまりのおかしさに空いた口が塞がらなかった。
「良いこと、よく覚えておきなさい。私を味方にしておいた方が、あなたの人生にとてもプラスになる。あなたはまだ非常勤講師よ。私ならいろんな便宜を図ることができる。だって、私は県庁の教育委員会の係長よ。父は部長、叔父も、叔母も、みんな県の教育関係の仕事をしているのよ」とオナミは微笑む。
ヒロシは蛇に睨まれたカエルである。じっと動かずにいる。息苦しさを感じたかと思うと、一筋の汗が顔を流れた。オナミはすかさずその汗をハンカチでぬぐってやった。
「だから、私の言うことを聞きなさい。悪いようにしないわよ。そうそう、あなたのお母さん、かなりひどい状態みたいだと聞いたけど、何なら良い施設を紹介してあげてもいいわよ。親戚が経営しているの」と鳥の脚のような痩せた手でヒロシの顔をなぜた。
「お願いしていいですか?」
「あなた次第よ」
「僕に何かできることがありますか?」
「あるわよ。たくさん」
「たとえば、どんなことです?」
「簡単に言うわね。私と結婚して」
「それは嫌だ」
「そう言うと思った」
オナミはがっかりした表情を隠さない。
「じゃ、とりあえず、この話はなかったことにしましょう」
「とても夜桜がきれいね」とオナミが言った。
「夜桜の話をするためにわざわざ私を呼んだの?」と京香が聞く。
そこは桜の公園が近くにあるしゃれた居酒屋で、二人は外を眺めながら、酒を飲み交わしている。県の役人のオナミが友人である京香を誘ったのである。誘ったのは、世間話をするためのではない。京香の仮面を剥いで、それをネタに大友ヒロシの前から消えてもらおうと考えたのである。
「京香は結婚しているよね」
オナミと京香は大学時代の学友である。深くもなく浅くもない関係であるが、一言でいえば、互いに儀礼的に微笑みを交わしながら友人関係を演じている。
「しているよ」
分かり切った質問にどう答えていいのか分からず微笑んだ。
「だったら、ヒロシ君とは何でもないよね?」
「どういう意味かしら?」
京香がとぼけた。
「あなたに夢中だということを知らないの?」
「知らないわよ。あなたも知ってのとおり、私は結婚しているのよ」京香は笑った。
「ところで、ナオミはヒロシ君のこと好きなの?」と京香は聞いた。
あまりにストレートな質問にオナミが戸惑っていると、
「やはりそうなのね」と京香は微笑む。
「本当にそうなら、あなたの気持ちを素直に言えばいいじゃない」
「だめよ。今はあなたに恋しているの」とオナミはうつむく。
「どうして、そんなことが分かるの?」
「だって、京香、あなたが結婚しているかどうか聞かれたもの。結婚していると言ったら、それでもあなたと付き合いたいと言うの」
京香は一流会社に勤める夫と二人暮らしており、専業主婦をしている。大学を出たときは教師をしていたが、結婚を機に辞めている。その気になれば、どこかの学校の臨時の教員になれたかもしれなかったが、あえて選ばなかった。なぜなら、教員という仕事に興味がなかったことと、稼ぐ必要に迫られるほど生活に困っていなかったからである。だからといって、専業主婦の一日中あるかといったら、それも違う。空いている時間はお茶を習ったり、英語を習ったり自由気ままに過ごしている。
「私はヒロシ君に興味ないわ。そう伝えて」
「私もそう思っている。だって、私はあなたの本当の顔を知っているもの」とオナミは勝ち誇ったような顔で言う。京香がどんな顔をするのか。微妙な変化も見逃さいといわんばかりにじっと見る。
だが、京香は澄ませた顔で、
「私にどんな顔があるというの?」
オナミは何かにつけ、ヒロシを呼び出し、飲みに誘う。酔うと必ずといっていいほど京香を罵倒する。
オナミはガネをして化粧も薄く地味な服を着ているので、おばさんにしか見えないが、メガネをとったら意外と知的で悪くはない。かつて美人とあったということを想像できないこともなかったが、みずみずしさが欠けているため、枯れている花のようである。とても美しいとは言い難い。手は鶏の脚のように骨と皮だけである。二十代の初めに恋した男が針金のように痩せた女が好きだと言ったので、必死に痩せたために骨と皮の体になってしまった。その男は実に気まぐれな男で、別れたいがために痩せた女が好きだと言ったのだが、それを真に受け本当に痩せた。すると、男は「本当を言うと、俺はぽっちゃりした女が好きだ。お前みたいな針金のような女大嫌いだ」と罵りオナミの前から消えた。心に深い傷を負った彼女は、人が変わったように仕事に熱中した。親戚の連中が縁談を進めても、耳を傾けず、独身を貫き通してきた。だが、大友ヒロシが現れて大きく変わったのである。一言でいえば、恋をしたのである。三十七歳のオナミは最後のチャンスだと思っている。だが、ヒロシは人妻である京香に心を寄せていた。
今年二十八歳になるヒロシは数年前まで大手の化学メーカーで働いていたが、母親が老齢で介護が必要なため、会社を辞め、地元に戻った。知人の紹介で、地元の高校の臨時教師になり二年が経つ。一年前に『森を育てる会』というボランティアに入り、そこで、京香とオナミと出会った。ヒロシは南欧の男を思わせるような彫の深い顔をしている。大学時代にラクビ―をしたので筋肉質の体型で猛々しいオスを想像させる。オナミはヒロシを一目見た瞬間から好きになったが、あいにくと鶏の脚のような手をしたオナミに、ヒロシは何の興味も示さなかった。ヒロシがひかれたのは美しい天使のような京香である。京香はヒロシの熱い視線に気づいたが、無視した。それがかえってヒロシの恋心を掻き立てた。
「あの女のことをどの程度知っているの? 人妻よ」
オナミがあの女と呼ぶのは京香しかいない。あの女と言うだけでヒロシは京香のことを言っているのだと分かる。だが、なぜ京香を異常なほど嫌っているのかが、ヒロシには分からなかった。まして、その原因が自分にあるとは考えも及ばなかった。ただ単に美しい女に対する嫉妬の表れと高をくくっている。
「知っています。帽子が似合う素敵な人だと思っています」
「帽子! あんなの男を釣るための小道具よ。そんなことも分からないの?」
「仮にそうだとしても、この世に、男と女しかいないんだから、それも良いと思いますよ」
オナミは呆れた顔で、
「あの女は仮面をつけているの。あなたに分からないの? 仮面をとったら、オオカミの顔が現れるわ。赤ずきんの話を知っている」
「オオカミに赤ずきんちゃんが食べられそうになる童話でしょ?」
「本当は違うのよ。赤ずきんがオオカミを食べるのよ」
「どうでもいいことです」とヒロシはつっけんどんに応えた。
「馬鹿ね、あの女は娼婦よ。あなたなんか食われてしまうのよ」
「あんなきれい人なら食われてもいい」とヒロシは朗らかに笑った。
「そんなことは私が許さない。よく、お聞きしない。あなたには、もっとふさわしい人がいる」
「どんな人ですか?」
「たとえば私よ」
ヒロシはあまりのおかしさに空いた口が塞がらなかった。
「良いこと、よく覚えておきなさい。私を味方にしておいた方が、あなたの人生にとてもプラスになる。あなたはまだ非常勤講師よ。私ならいろんな便宜を図ることができる。だって、私は県庁の教育委員会の係長よ。父は部長、叔父も、叔母も、みんな県の教育関係の仕事をしているのよ」とオナミは微笑む。
ヒロシは蛇に睨まれたカエルである。じっと動かずにいる。息苦しさを感じたかと思うと、一筋の汗が顔を流れた。オナミはすかさずその汗をハンカチでぬぐってやった。
「だから、私の言うことを聞きなさい。悪いようにしないわよ。そうそう、あなたのお母さん、かなりひどい状態みたいだと聞いたけど、何なら良い施設を紹介してあげてもいいわよ。親戚が経営しているの」と鳥の脚のような痩せた手でヒロシの顔をなぜた。
「お願いしていいですか?」
「あなた次第よ」
「僕に何かできることがありますか?」
「あるわよ。たくさん」
「たとえば、どんなことです?」
「簡単に言うわね。私と結婚して」
「それは嫌だ」
「そう言うと思った」
オナミはがっかりした表情を隠さない。
「じゃ、とりあえず、この話はなかったことにしましょう」
「とても夜桜がきれいね」とオナミが言った。
「夜桜の話をするためにわざわざ私を呼んだの?」と京香が聞く。
そこは桜の公園が近くにあるしゃれた居酒屋で、二人は外を眺めながら、酒を飲み交わしている。県の役人のオナミが友人である京香を誘ったのである。誘ったのは、世間話をするためのではない。京香の仮面を剥いで、それをネタに大友ヒロシの前から消えてもらおうと考えたのである。
「京香は結婚しているよね」
オナミと京香は大学時代の学友である。深くもなく浅くもない関係であるが、一言でいえば、互いに儀礼的に微笑みを交わしながら友人関係を演じている。
「しているよ」
分かり切った質問にどう答えていいのか分からず微笑んだ。
「だったら、ヒロシ君とは何でもないよね?」
「どういう意味かしら?」
京香がとぼけた。
「あなたに夢中だということを知らないの?」
「知らないわよ。あなたも知ってのとおり、私は結婚しているのよ」京香は笑った。
「ところで、ナオミはヒロシ君のこと好きなの?」と京香は聞いた。
あまりにストレートな質問にオナミが戸惑っていると、
「やはりそうなのね」と京香は微笑む。
「本当にそうなら、あなたの気持ちを素直に言えばいいじゃない」
「だめよ。今はあなたに恋しているの」とオナミはうつむく。
「どうして、そんなことが分かるの?」
「だって、京香、あなたが結婚しているかどうか聞かれたもの。結婚していると言ったら、それでもあなたと付き合いたいと言うの」
京香は一流会社に勤める夫と二人暮らしており、専業主婦をしている。大学を出たときは教師をしていたが、結婚を機に辞めている。その気になれば、どこかの学校の臨時の教員になれたかもしれなかったが、あえて選ばなかった。なぜなら、教員という仕事に興味がなかったことと、稼ぐ必要に迫られるほど生活に困っていなかったからである。だからといって、専業主婦の一日中あるかといったら、それも違う。空いている時間はお茶を習ったり、英語を習ったり自由気ままに過ごしている。
「私はヒロシ君に興味ないわ。そう伝えて」
「私もそう思っている。だって、私はあなたの本当の顔を知っているもの」とオナミは勝ち誇ったような顔で言う。京香がどんな顔をするのか。微妙な変化も見逃さいといわんばかりにじっと見る。
だが、京香は澄ませた顔で、
「私にどんな顔があるというの?」
作品名:京香は自由きままに生きる 作家名:楡井英夫