bloom
彼が寝るのを確認してから、私は洗い物へと取り掛かった。明日も使えるように丁寧に、起こさないように静かにと、緩めた蛇口から流れる水へ手をさらして始める。下げられたときに水を張られていなかった茶碗のザラッとした感触と、そんなことで手を止めてため息をつく自分に今日もうんざりした。
思い出すのは以前のこと。一回りより更に大きい彼の手が、隣で食器を受け取り優しく拭いていた。終えると、水を切る私の手を包んで「ありがとう」と言ってくれた。きっと無理をしていたのだ。簡単に舞い上がってもっと甘い味を求める私を、彼は十分に尊重してくれていたのだと思う。
*
彼はあまり、私を名前で呼ぼうとしなかった。大抵は『君』だとか『○○さん』だとか――、彼が言うにはその方がちゃんと対等らしいからだそうだ。私も合わせて、『あなた』や『××さん』なんて呼んだ。そんな自分が背伸びしているようでくすぐったくなり、次第に違和感で体が重くなる。私は下でもいいのに、私は我慢してもいいのに、そういうバランスを大切にしたいはずだったのに。
我侭がデタラメに身体を這って、至る所で悪さをした。手先は冷えて口角が上がらなくなり、踵を地について歩かなくなる。彼の真似を全て忘れ、惹かれた時以上の寂しさが全身に響く。指先からするりと、白い塊が滑り落ちていく。
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その日の夕食には、温かい春雨のスープを用意した。数少ない彼の好物だったからだ。彼は一口食べてから、思い出したように手を合わせた。
――ありがとう。
――うん。
生返事をしながら、私は思う。彼は、こんなお箸の持ち方をする人だっただろうか。比較も何もそんなことを気にしたのは初めてだったのだけど、彼が全く知らない人になったようだった。
悪いのは私だとわかっている。好きな作家の言葉を借りれば、私たちは同じような寂しさを持っていたから惹かれ、一緒にいた。そこで身勝手に寂しさを増やした自分のせいなのだとちゃんと知っていて、だからこそ私は決めた。
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鉄の扉を閉めて、ポストへ鍵を入れる。エレベータを素通りして階段を下りながら、私はポケットのチョコレートを取り出した。期待以上の苦味が口へ広がり、後悔も寂しさも隠してゆくような気がした。
彼以上に惹かれる人は、もう現れないだろう。骨まで溶けるような恋もきっとしない。それでもどこかの誰かと添い遂げるのだろうし、もしかすると好きな物語の主人公のように、また彼を探してふらりとするのかもしれない。ただそれまでは一人で、この鮮烈な世界と向き合ってみるのも楽しいのかもしれない。