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簡単に消えた過去

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『簡単に消えた過去』

過去は簡単に消せない。そう思っている人間もいるだろう。だが、過去は思ったよりも簡単に消えるのである。砂浜を歩いてみたまえ。一歩一歩確実に歩いたつもりでも、振り返ると、その足跡が波で消されている。人生もまた似たようなものだ。時間という波が次々と打ち寄せては過去の足跡を消していくのだ。

離婚を決めたとき、夫のアキオは「お互い、子供がいなくてよかった。別れてしまえば、二人の間に何もなかったといえる。真っ白だ。まるで消しゴムで消したみたいに」
子供がいないから、消しゴムで消すように過去を消してやり直せる。そんな思いを込めて言ったはずである。慰めのつもりだったが、逆に妻のマサコの感情を逆なでした。
「ええ、そうね。どうせ、私は子供ができない体よ」とマサコは応えた。
 結婚して数年経った頃からマサコは夫の実家からどうして子供ができないのかと責められた。自分だけに原因があるかのように言われた。アキオに一緒に病院に行こうと誘ったが嫌だと言われた。
「子供ができないのは、あなたが悪い」と義母に責められたとき、夫は何も言わなかった。その時のことが悔しくて、何かにつけて、夫にあたった。それが二人を少しずつ離していった。二人のどちらか謝れば、済む話だった。たった一言、「ごめん」と。だが、その一言をどちらも言えなかったのである。一年、二年と過ぎるうちにどちらかともなく別れ話を持ち出し、話がとんとん拍子に進んでしまった。マサコは心のどこかで夫が離婚はしないと言い出すのを期待していたが、それはなかった。
財産分与を決め、最終的に別れることを合意したのは半年前のことだ。その一週間後のこと。
「ここで別れたら、もう二度と会うこともないわね」とマサコは荷物をまとめながらさりげなく夫に向かって言った。何かを言ってくれるのを期待していたが、アキオは何も聞こえなかったように黙っていた。

翌日、運送屋が来て荷物を持っていった。それを見届けたマサコはアキオに「早くいい人を見つけてね。離婚届けは判を押してテーブルの上に置いたわ」と負け惜しみのように言って、マンションを出た。
マサコは最寄りの駅で列車に乗り、幾つか乗り継ぎ、郊外の駅で降りた。
数か月前に見つけたアパートは二人が暮らした池袋のマンションから二時間ほどかかる場所にある。築十年のアパートで、狭くもないし、広くもないが、独りで暮らすには十分な部屋である。
幸い、離婚しても仕事を継続することができたので、住むところが変わったことと夫がいなくなった以外何も変わらないはずだった。
だが、初めて独りで眠る夜、顔を洗った後、鏡を見たとき、思わず後ずさりしてしまった。まるで床に落としたコップに無数のヒビが入ったようにたくさんの皺があり、とても四十歳とは思えなかったからである。子づくりをめぐって、夫や実家と無意味ともいえるような口論を繰り返してきたが、その心労が顔に現れたのであろう。あまりにもみじめだが、同時に滑稽のように思えたので笑いそうになった。だが、周りに誰もいない。笑うことさえばかばかしいと思ったとき、沈黙せざるをえなかった。
周りはアパートしかないせいか実に静かである。テレビをあまり見ないマサコは静かな部屋で何をしていいのか分からなかった。夫と暮らしていたときは、彼がテレビをつけぶつぶつ言いながら観ていた。だが、独りになった今は、テレビも消したまま、ぶつぶつ言う人もいない。唯一の楽しみはビールを飲みながら、雑誌を読むこと。だが、ビールはほろ酔い気分にさせてくれるだけで、 静かな中で感じる寂しさを癒してはくれない。独りで暮らすことがこんなに寂しいとは思わなかったが、もう二人で過ごす夜に引き返さない。
夫のことを考えまいとすれば、かえってあれことと思い出してしまった。アキオはいい人だった。ぶつぶつと独り言をいう癖はあったが、良い人だった。そう思うと自然と涙がこぼれてきてしまった。

数か月後、アキオからメールが来た。『元気に暮らしているか?』という短い内容だった。返信しようと思ったが言葉がうまく出てこないまま一月が過ぎ、再びメールが来た。同じようなメールだった。
それから三か月が過ぎた。アキオから一度もメールが来ない。来ないと妙に心配になった。いろんなことを想像してしまい、思い余って電話してみたけれど、つながらない。心配になって二人が住んだマンションに行ってみた。ところが、その部屋は既に別の人が住んでいた。十五年、アキオと一緒に住んだ部屋も、そのアキオも消えた。マサコは部屋を出るとき、写真一枚も持って出なかったから、一緒に暮らしたという証が全て消えてしまった。アキオが言ったように過去が簡単に消せてしまったのである。ただ、老いたという事実を除いて。


作品名:簡単に消えた過去 作家名:楡井英夫