黄昏時のかけ橋
「おや、六さん。いつもすまないねぇ」
橋の袂で転びそうになった私を助けてくれたのは、ここ暫くで顔見知りになった男だった。
転びかける時や、物を落としそうになる時など、ちょっと困る時によく居合わせて、手を貸してくれるのだ。
「嫌だねぇ、本当に。人間の霊は悪さをするからいけない」
彼の腕につかまって姿勢を正し、着物の裾を直しながら、私は小さく息を吐く。
すると男は、驚いた様子でまじまじと私の顔を凝視した。
「人の、霊だって?」
「そうだよ。どうにも相性が悪いのか、性質の悪いのに引っかかる率が高くてねぇ」
「そりゃあ難儀だが」
霊の話をする際に半信半疑の声などいつものこと。どれだけ信心深い人間相手でも、おおっぴらに口に出すのははばかられる話なのだから、そんな反応は気にしない。
頭からの否定も肯定もしなかった思慮深い男に、私は肩をすくめて見せた。
「全くだよ。その点動物霊は有り難いねぇ。寄り付いてきたところで悪さはしないし、暫くすれば満足するのか消えてっちまう」
「へぇ……」
男はがりがりと頭を掻くと、私から橋げたへと目を向けた。
「そいつも姐さんとの相性とやらのせいなのかね……?」
「さて、あたしは学がないから、そこまでは知らないけど。消えてっちまうのは、良いことだろうってのは分かってても、ちぃっとばかり寂しいもんだよ」
「物好きだなぁ、姐さん」
そうかもね、と軽く同意しながら、私も橋を見る。
あの世とこの世を繋ぐものとされているからか、橋はどこでも賑やかで、静かだ。
たそがれ時なら尚のこと。あちらこちらから声が飛び交っているのに、もの寂しい雰囲気が濃く漂っている。
「今もね、一人……一匹と言った方がいいかしらね、憑いてるのだけれど。どうやらもういなくなるみたいでねぇ」
男はふうんと曖昧に頷いた。
「姐さんは、全く変な人だなぁ。だがね、姐さん、姐さんはそれを寂しいなんて思っちゃいけないよ。怪談話でも、説法でも、そういった手合いは、その寂しい気持ちに寄って来るって言うじゃあないか。深情けも良し悪しだ。―――まあ、俺は助かったがね」
つい、と横にいる男を見れば、私の視線に気付いた男は、決まり悪げに微笑んだ。
「橋が見えなくなって、困ってたんだ。姐さんのお陰で、俺も無事に成仏できそうだよ」
からんと下駄を鳴らし、男が橋へと歩き出す。
ついでのように蹴とばしたのは、先程私を転ばせたものだった。今は黒いもやの姿をしていた。
「礼にと言うのもなんだが、こいつは俺が連れてってやるから、姐さんは帰りな。ここはまだ姐さんの来ていいとこじゃあないよ」
しっしと追い払うしぐさが、妙に人臭い―――多分、私に似ている。
不意に、袖擦り合っただけの縁でなく、もっと深いかかわりがあったのではないかと言う疑問が頭を掠めた。
「ねぇ、六さん。六さんは、前にも私と会ってたのかい?」
尋ねれば、男は器用に右眉を上げた。その仕草もまた、少しだけ私に似ていた。
「なんでそんな事を聞くんだい?」
「お別れを言いに来てくれたのは、あんたが初めてだったからねぇ」
「そりゃあ光栄だ」
橋の上の男と、橋の手前の私の間にあるのは、約十三歩の距離。
男は私を振り返ると、いつの間に出したのか、くるりと巻いた尻尾を揺らした。
「それじゃあな、姐さん、気をつけて帰んな。変なもん呼び込むんじゃねぇよ」
じゃあなと笑って男が、いいえ、犬が、橋を渡って霧の向こうへ消えていく。黒いもやも、その後をゆらゆら揺れながらついていく。
木目も正しいかけ橋が、宵闇にぼんやりと金味がかった風体で浮かぶ中、黒いもやを引き連れて行く犬の姿は、奇妙に勇ましく、頼もしく、そして楽しげでもあった。
私のとっぴな疑問に答えは返らず仕舞いだったが、重ねてたずねようという気にもなれない。
それが豆粒みたいな大きさになり、視認できなくなるまで見送ってから、私は漸くきびすを返し、逆方向への道をたどり始めた。
がやがやと耳につく生活音。
すっかり暗くなった道の端々で、ぽつぽつ家に明かりが灯り始める。
一人暮らしの私には少しばかり縁遠い、そんな風景が、やけに眩しい。
明日からまたさみしくなるなと、ふと思いかければ―――間髪いれずに、駄目だよと笑う犬の声が耳元でした気がした。