雪の日に
きっと、雪が日常と共にある街の人が見たら笑ってしまうような、転倒して何人負傷だとかいうニュースが夜にはテレビを賑わすことだろう。
冬は除雪車が走るような街で育ったから、わたしは雪の日の歩き方は心得ている。
溶けかけた雪が再び凍ったときが一番危ないのだ。東京は人も車も多いから、積もった雪がすぐ溶ける。今日は寒いから、溶けては何度も凍るだろう。皆、自分は大丈夫だといつもと同じ靴を履くのもいけない。
わたしはいつものヒールのパンプスを紙袋にしまうと、バッグと一緒に肩にかけて、なんとなく流行りで買ってしまったものの出番の無かったレインブーツを履いた。
東京に出て、次の春で十年が経とうとしている。
こんなに寒くても、わたしには手を繋いでかじかんだ指先を温めてくれる人も、冷えきった部屋で暖房がきくまでの間、熱いお茶を湧かしてからだを寄せ合う人もいない。
ここで暮らし始めてから恋人は何人かできた。でも、冬になると、決まって別れてしまう。
きっと年末でお互い仕事が忙しくなったり、クリスマスやお正月やバレンタインと、恋人たちが重視するイベントをうまく楽しめないひねくれたわたしのせいだろう。
もっと素直になりなさい。子どもの頃から何度も言われた死んだ母の口癖を思い出す。
ちょっとくらいひねくれていないと、都会ではやってられないのよ。わたしは心の中で呟いた。
◇
電車に乗ると、ズボンの裾を濡らした人と慌てて乗り込んだせいか開きっぱなしの傘を持った人で、車内はいつもよりも混雑しているように感じた。
エアコンからの生温い空気と、湿った布地の臭いが混ざって、息苦しい。
わたしは、隣の人の腕にぶつかるのが気になって、網棚に紙袋を置いた。
「次は品川―」
もう何千回と聞いているアナウンスと何千回と降りている駅で、わたしは電車を降りた。
あっ。
アナウンスと共に発車を知らせるメロディがホームに響いた。
もう遅い。
ホームから次の駅へ向かって走って行く緑色の電車をわたしはただただ人ごみの中で眺めるしかなかった。
家を出るときにポストから取り出した請求書やDMと一緒に結婚式の招待状があった。今年になって、もう二通目だ。地元の友達はどんどん結婚している。
気付くと、いつも置いてけぼりだ。
仕事に遅れるわけにはいかないから、乗っていた車両が何番目だったかを思い出しながら、駅ビルで間に合わせの黒いパンプスを仕方なく買って、会社へ向かった。
昼休憩になって、ネットで忘れ物の問い合わせ窓口の番号を調べると、そこへさっそく連絡した。
ストラップもなく、つま先と踵だけを包むパンプスは、自分の足にあった物を選ぶのが難しい。あれはわたしの足にぴったりで、なおかつ馴染んでいる。絶対に諦めたくない。ヒールが削れる度に直して、たまには面倒くさがりながらも磨いたりする、東京に来てから、一番長いわたしのパートナーなのだから。
◇
思っていたより、仕事が長引いてしまった。
八時までと言われた引き取り所へ慌てて走っていると、靴が脱げた。その拍子に、わたしは足首をひねって、転んでしまった。思わず、ひゃっとあげた悲鳴で、道行く人が振り返ってわたしを見た。でも、見たのは一瞬だけで、誰もがわたしに声を掛けるわけでもなく知らぬ振りをしている。なんら珍しくない都会でのよくある光景だ。
こんなところで転んでいたら、雪道で転ぶ人を馬鹿に出来ないじゃないか。
「大丈夫ですか?」
後ろを振り向くと、駅員の格好をした人が脱げた靴を拾って、もう一方の空いた手を差し出した。
「あ、すみません。どうも」
わたしは、そそくさお礼を言うと、そのサイズが合っていないパンプスを受け取って、自分で薄汚れた道に手を付いて立ち上がった。
その人は笑顔で軽く会釈すると、足早にどこかへ行ってしまった。
素直になりなさい、母の言葉がまた聞こえた気がした。
◇
「あ、さっきの人。怪我、なかったですか?」
駅員さんは、わたしに言うと、お名前は?と、パソコンと手元の書類で情報を確認しはじめた。
「ん? 西澤秋穂? もしかして、あの西澤さん?」
その人は独り言のように言って、わたしの顔とまだ書きかけの必要事項を記入した紙をまじまじと見た。
「え?」
「ほら、覚えてないかなあ。二年生のときに同じクラスで、山の手線の駅を全部言って、すごいって言ってくれた」
「……あ! もしかして、ぽっぽ?」
「そうそう」
今度はわたしがそのぽっぽの名札と顔をまじまじと見た。その人は恥ずかしそうに笑っている。
下の名前は思い出せなかったが、名字を見たことで、ぽっぽのことはぼんやりながらも思い出すことができた。
愛読書が東京路線図で、乗りもしない時刻表を眺めて、みんなからぽっぽと呼ばれていたっけ。
「へえ、夢を叶えたんだね」
「まあ、そうなるのかな。現実は厳しいけど」
ぽっぽは照れくさそうに言った。
「西澤さんも東京出てたんだね」
「うん。大学もこっちだったし、就職もそのままこっちでね」
後ろにいる他の職員がわざとらしく咳払いしたので、わたしたちは声を潜めた。
「住んでるとこ、俺の家と一駅しか変わらないね」
「そうなの?」
「今、忘れ物持ってくるよ」
ぽっぽは、振り返りながら、すぐ戻ると言って、奥の保管庫らしきところへ走って行った。
◇
「今度、飲みにでも行かない? 俺の連絡先」
わたしは、ぽっぽが電話番号を書いたメモをコートのポケットから取り出すと、もう一度しまった。
ホームにはやっぱり慣れない雪で裾を濡らした人がいた。
電車が走る線路には、溶けかけた雪から、地面の土が顔を出していた。
いつもなら気にしないのに、見慣れない景色だから、わたしは白線の内側に立って、線路の無機質な色を見ていた。雪の隙間に、芽を出した草を見つけた。
もうすぐ春になる。
ぽっぽが必死な顔で駅名を早口で言うのを思い出して、わたしはくすっと一人で笑った。