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一人きりの部屋の中で

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静かな部屋の中で私は薄い本を読んでいた。越してきたばかりのこの部屋の中でなにか緊張のようなものを感じていた。まだこの部屋に慣れていないことからくるものなのだろうか。耳には最近買った新しいヘッドホン。音質はもちろん、デザインで選んだお気に入りだ。これまで使っていたヘッドホンもなかなかいい値段の物であったが、これはそれ以上に高い。スマホに入っている曲を適当に流しながら、紙に書いてある文字を流すようにひたすら読み続けていた。もう三時間くらいあろうか。同じ本を何回も読んでいる。壁に掛けてある時計の針が上下に一直線になっている。そろそろ晩御飯の時間だが、まだその気分ではない。こういう落ち着いた一日は、これまでの習慣を無視するに限る。そうして流れに逆らわず、時を過ごすのだ。
 耳と密着しているヘッドホンから音楽が流れているのだが、曲が静かになるほんのわずかの瞬間に、ヘッドホンを通り抜けて何かの音が聞こえる。ヘッドホンを外して、その音の正体を突き詰めようとする。外したヘッドホンから漏れてくる音楽とは別に確かに音が聞こえる。いや、声だ。赤ん坊の声だ。もちろん私は結婚してないし、子供もいない。付き合っている彼女は遠い九州だ。ここにあらわれるはずがない。仮に現れても、赤ん坊の声がする理由にはならない。部屋の中にあるヘッドホンから流れる微弱な音楽とは異なり、その赤ん坊の声は外から聞こえる。玄関側ではなく、ベランダ側からだ。窓の向こうにはまた別のマンションがある。黒と白でシンプルに作られた、高そうなマンションだ。一階の横には小さいが庭もある。木が一本立っているほかに、白いプランターに植えられた花も見た。私のマンションはどうかというと、外の音が鮮明に聞こえるように、高いものではない。けれど、東京の一人暮らしには十分すぎるものだ。不満はない。
 さて、その鮮明に聞こえる赤ん坊の声は、今日初めて聞いた。昨日まで隣に赤ん坊が住んでいる様子はなかったし、物音ひとつ聞いたことがなかった。だから今日のこの赤ん坊の声は相当大きいものであることは間違いなかった。実際、どこかの部屋の住人がうるさいと声を上げている。そう思っている人はおそらくもっといる。けれどそれを声に出して言う人は、東京という街柄からか、(むしろ東京だから声を上げるのか)ほとんどいない。私もその一人だ。確かにうるさい。ヘッドホンをしているとはいえ、その隙間を狙って聞こえてくる泣き声は集中の邪魔だ。すでに流れに身を任す至福の時間は消えてしまった。いつも通りの晩御飯の時間だ。
 しかしその一方で、その赤ん坊の声をなぜかありがたがる自分もいる。実にうるさく不愉快であることは違いないのだが、その見境もなく広がり、途切れることなく響いている声が部屋の外から入り込み、狭く限定された部屋の隅々まで伝わり、広く浅い人間関係を築くという私のこれまでの考えが充満した空気を入れ替えたからだ。もっと言うなら、狭いこの部屋の中で、孤独に似たものを抱えながら、生きていくしかないという考えだ。赤ん坊や、その親のことは何も知らないが、私の狭く限定された一日に半ば強引に介入し、その孤独感を打ち破ったのだ。東京に越してきてから積りに積もってきた孤独の正体が解き明かさえ、外に出された氷のように融けだした。融けたものはどこに行くのだろうか。ヘッドホンから流れる音楽と赤ん坊の声が混ざり合う。
 
 
 この赤ん坊の声はそれ以来聞こえなくなった。一時的にそこにいたのだろうか。もしかしたら童話のように一日で大きくなって、もう大人になっているのかもしれない。もうすぐ晩御飯の時間だ。読んでいた本を閉じ、ヘッドホンを外す。また孤独を感じることがあるかもしれない。そのときはまたあの赤ん坊に泣いてもらおう。



 
 季節が変わって、また孤独を感じたとき、彼女に電話をした。その赤ん坊のことを話そうと思ったが、やめた。彼女へ電話かけようとしたときにあの時と同じ感情を抱いたからだ。それまで普通のことだと思っていた、そのことに、名前ではないが、カテゴリーのようなものをつけてくれた。それまで気づかなかったことに気づかせてくれたあの赤ん坊に感謝する。     
作品名:一人きりの部屋の中で 作家名:晴(ハル)