声がする。
うあおんうあおんうあおん。この声が聞こえるのはたいてい夜で、ユウコが「赤ちゃんの声かわからなくなるな。どっち?」と独り言を言うのをよく聞く。人間は本当に耳が悪い。自分と同種の生き物の声と異種の声の違いもわからないのか、やれやれ、と思うけれど、「どっち?」とのんきそうにつぶやくこの声の余韻に浸っていると、かなしい声のその先の、暗い穴のような広い世界に対する圧倒的な絶望みたいなものの淵ではもしかしたらとてもあたたかな一定した希望のようなものがその輪郭を成していて、うあおん、この声も絶望の暗い穴、かなしい穴に向かって叫ばれたものではなくて、あたたかな輪郭への叫びなのかもしれないとそう思えてきて、人間ののんきさ鈍感さも捨てたものじゃないと考えたりする。
人間にも同じ言葉をしゃべる人間と違う言葉をしゃべる人間がいるらしいということは、ナオキ氏とキミヨ氏の言葉のやり取りをきいていて知った。ナオキ氏、「毛布洗っといて。」キミヨ氏「はい。」キミヨ氏は気を利かせてナオキ氏のパジャマも洗う。しばらくしてナオキ氏、「なんでパジャマ洗ったんや。」キミヨ氏、「気持ちいいと思って。」ナオキ氏、「毛布洗っといて。そう言ったんや。」キミヨ氏、「パジャマ、ぬるかったから。」ナオキ氏、「俺はパジャマを洗ってくださいなんて一言も言ってへんぞ。」キミヨ氏、「パジャマ、洗うとぬるくなくなって気持ちいいでしょう。」ナオキ氏、「毛布を洗ってください、と言ったのが聞こえませんでしたか。」キミヨ氏「毛布も洗ったでしょ」猫でもわかる、きっとサル山の一番阿呆なサルでもわかる。この夫婦の間にあたたかなお日さまに感じられるような見守りあいと自由な気持ちは求められない。同じ言葉をしゃべられないから。
うあおんうあおんうあおん。また野良の声がする。近づけば、野良の言葉も僕に伝わるであろうか。猫に言葉は必要ない。もちろん。嗅ぎあい、舐めあい、たたきあい、転げあい、からまりあい、叫びあい、ともに眠る。強制はなし。しつこいものがいればニャーと威嚇しパンチする。更にしつこければ、去りつつシャーと威嚇する。あとは忘れる。気が向けばまた嗅ぎあい、舐めあい、たたきあい、である。
昨年の夏いつのまにやらミズグチの家にやってきた、死んだ魚の匂いを口にぷんぷん臭わしていた洋という猫。ここまで言葉のない猫も初めて見たぞというほどに、物言わずひたすら耳をかんできた。ニャー、シャー、やめろというのが聞こえないの!とひたすら激しい剣幕を見せる僕に、洋はしつこくまとわりつく。僕は10日口がきけなくなり、ご飯を食べられなくなった。嫌なにおいのする病院に連れていかれ、痛い針のようなものを手に刺され、物言わず僕は洋とミズグチの家を恨んだ。
病院から帰った僕に洋は近づかず、遠まきにじっと見つめることをする。かまう気力も体力もまだ回復していない僕はホームベーカリー横の涼しさと暖かさの見事なバランスがとれた棚の上でじっとしている。遠巻きに僕を見つめていたはずの洋はいつのまにか隣にやってきた。耳をかむかと思いきや、耳をひたすら舐め始めた。しつこい。ニャー。言うと、うあん、高い声が帰ってきた。ないと思っていた力が体からふっと抜けるのを感じる。弱っていても緊張はしっかりとしていたらしい。うあん、洋が鳴く。ニャー。うるさい。うあん。うあん。うあん。うあん。洋はいつまでも鳴く。うあん。うあん。うあん。うあん。いつのまにか、洋はうあんと話すようになった。僕は無視する、威嚇もする。でも舐めもする、たたきもする、嗅ぎもする。あいには程遠い。あいはなくても通じることはする。あいではないけど何かはある。そういう関係もある。今でもたまに執拗にうあんと話しかけてくる洋。言葉は必要ないけれど、話しかけられるのも悪くないものである。
うあおんうあおんうあおん。声が遠くなっている。
悪くないものだということを、ミズグチの夫婦が再び感じあえる日が来ることは、もう願えない。このことは、賢いサルと普通の猫、普通の人間になら感じられること。
うあおんうあおんうあおん。声がさらに遠くなる。野良のもとに一っ跳びして何を叫んでいるんですかと訊いてみたい。
うあおんうあおんうあおん。答えがなくてもどんな顔で泣いているのか見てみたい。
うあん、何が言いたいのかさっぱりわからないけれど洋のこの妙に甘ったるい高い声を聞かせてみれば、うあおんうあおんうあおんの声の主も何か報われた気になるのではなかろうか。
うあおんうあおんうあおん。声が遠くなる。
「なぁ、たま、野良が盛ってるね。」
ユウコが言う。人間はのんきで鈍感ゆえに水を差すのがとてもうまい。