睡蓮の書 三、月の章
自分だけが、どうすることもできないものに、ずっと縛り付けられて生きねばならない。
望んでも得られない。何ひとつ――!
「……母さんは」
ふいに上げられたケオルの声は、いつもと違い、小さくかすれているようだった。
「誰よりもお前を大切に思ってた、キレス」
たったそれだけの言葉。それが、圧し留めていたキレスの感情を大きく煽り立てる。
「――大切に、思っていた、だって?」
キレスは低く声を震わせ、言った。「そんなわけ、ない……。あいつは、俺を、怖れてた」
「そうじゃない! お前を怖れていたのじゃない、お前のもつ『力』のために、そうするしかなかったんだ」
「同じことだ!」
「違う!」ケオルが声を上げる。「今ならお前にも分かるだろう、キレス。お前の持つ『月』の、その特異な力は、北が欲していたものだ。お前の存在が知られてしまえば、北が黙ってはいない。それがわかっていたから――お前を奪われないために、父さんも母さんも必死だった」
必死だった……? 馬鹿げている。
キレスは思う。結局、北は自分の存在をかぎつけ、戦は起こされた。何もかも、無駄だったのだ。
そうして彼は、自嘲気味に、声した。
「忘れたのかよ、ケオル。俺が初めて力を見せたときのこと」
まだ幼かったそのとき。キレスは言葉を扱うよりも早く、――いや、まるでその代わりに、自身の力を目覚めさせた。
それは彼にとって、自然な方法だった。何かを伝えようとするとき、言葉を用いる、その代わりに、彼はその力で目的を果たそうとする。たとえば、探し物を引き寄せるといったふうに。
喜んでくれるに違いないと。愚かにも、期待していた。――結果、
「あいつの目。まるで化け物を見るような目だったよ」
そのときの、母の目を、はっきりと覚えている。
それは決して受容を表したものではなかった。はっと開かれ、ここにあってはならないものを、見るような。
「それは」だがケオルは首を振る。「お前を怖れたのじゃない。母さんは、お前の力が表れることで、北に知られるのを、怖れただけだ」
「いいかげんに、しろ」キレスは低く唸った。「お前の妄想を、俺に押し付けるな」
「キレスお前こそ、忘れたのか。お前はずっと幼かったころ、母さんの目を傷つけた。そういうことが、あっただろう」
……母の目を、傷つけた? キレスの胸が、さっと凍りつく。
あれは、夢――千年前のアンプのしたことじゃないのか?
けれど、言葉に導かれるように、意識が記憶を手繰り寄せてゆくと、そこに確かに、触れるものがあった。
……そうだ、同じだ。千年前のアンプと同じ、母親の瞳を欲して――それが美しい赤の色をしていたために――、つかみとろうと、したのだ。
そう、アンプとまったく同じことを、していたのだ。
何かが重く胸を染め上げる。――切り離すことのできない、この性質――。
「だけど」ケオルは続ける。「母さんはお前を厳しく咎《とが》めたりせず、ただ優しく、たしなめるだけだった。母さんの左目からは血が流れていて、俺は、お前を責めた。すると母さんは、俺を叱ったんだ。怪我をさせたお前を叱らずに、俺だけを。
よく、覚えてるよ。あのときの俺には、その理由が分からなかった。理不尽だと、思ったよ」
ケオルは一度、ふっと息を吐いた。
「あのあと、母さんは、その瞳の赤の要因である『炎神』の神号を、他に譲った。……傷つけられるのを恐れたんじゃない、そうした事実を、引き起こさないために。
そして、お前には紅玉髄のビーズを与えた。お前はそれをずいぶん気に入っていたよな。――今でも、ほら」
ケオルが指差したのは、キレスの首元を飾るあの、赤いビーズ飾り。
……確かに、そうだった。このビーズ飾りは、両親から与えられたもの。自分がビーズ細工に打ち込むきっかけとなったものだった。
アンプの母と、キレスの母。同じ行為に対する反応は、まるで正反対だった。アンプの母はその瞬間、娘の魔性を見抜き、それに慄いた。アンプを自身の娘どころか人とも認めず、忌避するようになったのだ。
しかしキレスの母は違った。それによって自分を避ける事はなかった。兄弟と同じように接していた。――そのときは、まだ。
そう、そのときは、まだ。おそらく「力」がはっきりとは現れていなかったために。……気づかなかったのだ。「月」の本質というものに。
「お前は、知らないんだ、ケオル。知るわけがない」
キレスは自嘲気味に、声した。
「あの女は、間違いなく、俺の力を怖れていた。この力を忌み、遠ざけたいと願い――いや」
あの目が。言葉なく語っていた。言葉で語るよりもずっと明確に。それを隠そうとしていたことで余計に、それが事実であると知らせていた。
「この俺を、排除したいと。そう思ってた」
「そうじゃない――」
「お前は知らないんだよ!!」
叩き付けるように、キレスは声を張り上げる。黒い渦が湧き上がる。
「あの女は俺のことをまともに見ようとしなかった。あの、冷たい、目を、……お前は、知らない。知るはずがない!」
にらみ合う。ふたり、同じ表情をして。
「キレス。お前も、知らない。――母さんは、いつだってお前のことを気遣っていた。あんなに傷つけられても、本当に傷ついてるのはキレス、お前の方なんだと、いつもそう言って、お前を庇っていたんだ。
お前の力のために、母さんは本当にぼろぼろだった。お前だって、力尽き倒れていたのに――、どうしてあんな、不毛なことを、繰り返したんだ!」
「――“どうして”?」
キレスはせせら笑うかのように、言った。
「あいつが、俺を否定するからだ」それは当然だ、というように。「この力は、俺自身。これを否定することは、俺自身を否定すること。――それに抵抗するのは、当たり前だろ!!」
「お前を否定したのじゃないと言ってるだろう!」
「同じだって言ってんだよ!!」
認めない。決して。その意図が何であれ、自身に刻み込まれたもの、その形は、変わらないのだ。
「――いつまでいじけてるつもりだ、キレス」
痺れを切らしたように、ケオルは低く唸った。
「お前があの部屋を出してもらえないことで、不自由を感じていたのは分かる、だがそれを母さんのせいにするな。そうせざるを得なかった、いい加減分かれよ、それくらい!」
「“そうせざるを得なかった”? それが何だよ。そんなものは言い訳だ!
あの女は、俺が少しでも力を使えば、それを全力で止めてかかった。どんな小さな力だって、まるであってはならないものを見るようにして、全力で叩きのめすんだ。――俺はそうして拒否される。何度も、何度も、繰り返し……!」
キレスの叫びに、ケオルはひるむように言葉をのみこんだ。
「全部、あいつらの都合だ。勝手に、守ってやってるのだと言って、俺に押し付けてくる!」キレスは叫ぶ。胸が突き上げられ、言葉が底から押し出されるようだ。「俺は知ってる。あいつらが守りたがってるのは、俺じゃない。この『月』の力、それだけだ!」
キレスの言葉に、ケオルは苦々しげに顔をゆがめた。
作品名:睡蓮の書 三、月の章 作家名:文目ゆうき