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文目ゆうき
文目ゆうき
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睡蓮の書 三、月の章

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 向かう先の部屋から届く悲鳴に、ケオルは駆け出した。
 それまで中庭でラアやカムアと共に敵の様子を伺っていた彼だが、シエンらが神殿内に戻される直前に、あることを確認せねばならないと思い立ち、部屋に向かっていた矢先のことだった。
「キレス!」
 扉を開け放つなり声を上げる。部屋は、めちゃくちゃだった。
 中央神殿の前庭近くに設けられた、戦で傷ついたものを収容するここ処置室は、二十もの寝台が整然と並べられている部屋だ。少なくとも、数刻前ケオルがこの部屋で応急処置していたときには、そうだった。だが今は――寝台のほとんどが見る影もなく、壁際に折れ曲がった寝台の脚や枠、そしてシーツがぼろぼろになって散乱している。まるで小さな竜巻が暴れた後のようだった。
 それだけならまだ良かった。それだけなら、ケオルにとっては悪い予感が当たった程度のことだ。
 広く空いた部屋の隅。そこに、キレスはいた。
 身体を宙に浮かせ、深い影を纏い、その顔面には紫の双眸を不気味に灯している。長い黒髪が見えない力に引かれるように広がるさまは、人の精神を捕える魔物の投網のよう。
 異様な光景だった。漂う雰囲気がこの世のどんなものにも喩えがたく、まるで異界に足を踏み入れたような緊張感に、どっと不安が吹き出す。近づいてはならない、得体の知れない何か――それがキレスであると、頭で理解しても、心が受け付けない。息をのみ、呼吸も忘れ、ただその光景に縛られるように、ケオルは動けないでいた。
 そのとき、扉の傍から小さなうめき声を捉え、ケオルははっと我に返る。声の主は、治癒女神ヒスカだった。身体を強く打ちつけたのだろう、痛みに顔を歪めうずくまっている。ケオルはまた、部屋の反対側に彼の兄フチアがいることに気付き、戸惑いを見せた。こんな時だというのに、なぜ戦闘に加わらないのか――しかし今はそれを問うている場合ではない。
「キレス……!」
 意を決し部屋に踏み入ったケオルは、慎重に、伺うように数歩、キレスに近づき、もう一度その名を呼ぶ。得体の知れないものに対して抱く恐れと、それが本当に彼であるとは認められない思いが、声にも表れていた。そうした声が、興奮状態にある相手に届くはずがない。
 どうすべきか迷う間もなく、キレスの瞳の色がすうっと変化したかと思うと、見えない力がケオルの身体を地から引き剥がし、傍の壁にたたきつけた。
「……っ」
 背に走る衝撃に声が塞がれ、そのままはじかれるように床に倒れこむ。その傍にうずくまる治癒女神ヒスカが、痛みをこらえる様にこわごわと身体を動かすと、掠れた声で伝えた。
「ごめん、なさい……。キレスの……様子が、おかしかったから……、具合が悪いのかと、思って……。手が、触れた途端に、……こんなことに」
 もちろんヒスカに非があることではない。この様子では、キレスは何を言っても耳を貸さないだろうし、まして力でどうにかしようものなら、反撃もこの程度では済まないだろう。
 キレスは月神である。その力の本質を誰も知ることはなく、それが故、強大な力を持つ四大神――四属の神々の長――が恐れ警戒するほどの相手なのだ。彼らのような力を持たぬ神々が、力づくでできることなどあるはずもなく、またそれを試みて逆鱗に触れれば、命に関わるかもしれない。今のキレスの様子は、とにかく普通ではない。仲間という枠組みが意識される保証すら、ないのだ。
 ケオルは静かに上体を起こす。そうしてキレスの様子をその目に映すと、ゆっくりと息を整え、口の中で何かを唱え始めた。
 石造りの部屋の中を、ケオルの声が低く響き渡る。抑揚の少ない調子で生み出される言葉の連なりは、音が目に見えない帯となって流れ、部屋中を巡っているよう。ときにわずかに重なるようにして、繰り返し繰り返し唱えられるそれは、部屋を満ちる空気そのものとなり、肌に触れているようにさえ感じさせた。その間、ケオルはじっとその目をキレスから逸らさない。
 傍にいたヒスカは、それが知属神の用いる呪術のひとつであることに気付く。知属の唱える呪文は、四属の精霊を呼び出すものの他に、人の精神に影響するものがあるという。術の主要素が言葉であるために、相手によってその効果がまちまちなのだと、過去に本人から聞いたことがあった。言葉は聞き取れないが、おそらくキレスの精神を鎮めようとしているのだろう。
 しばらくすると、蜘蛛の糸のように広げられていたキレスの長髪は次第に収まり、纏う闇の気配も薄らいでいった。瞳の紫も立ち上がるように灯されていた火を消し、それでもまだ呼吸で肩を揺らすキレスは、焦燥したような戸惑うような表情を見せ、そのまま宙に身を留めていた。
「……キレス」
 三度目にその名を呼んだケオルの声には、安堵の色が混じる。キレスはまだ状況が掴みきれていない様子で、視線を移すことはしなかったが、代わりに、瞳をゆっくりと起こした。
「北が、やつらが攻めてきてる。……分かるか?」
 静かに立ち上がり、ケオルが呼びかける。キレスはしかし関心がないという様子で、彼を目に捉えることも、彼の言うことを確認することも、なかった。
 ヒスカは不安そうに二人の様子を見守っていた。北が現れるまでは、少し混乱したようではあっても普段とさほど変わらなかったキレスが、突然、何者かに操られたかのように豹変し攻撃を加えてきたこと。その雰囲気はまるで彼のものではなく――それどころか、彼女の知るどんなものとも違う、禍々しいものを纏っていた。
(あれは一体、なんだったの……)
 ヒスカは警戒を解くことができないでいた。今は鎮まっているとはいえ、完全に落ち着きを取り戻したとは言えない。一触即発の状態は保留されているにすぎないのではないか。
 しばしの沈黙。相変わらず周囲の状況を意識に入れようとしないキレスの様子を、じっと、待つように伺っていたケオルが、おもむろに――ヒスカにとっては実際、かなり唐突に思われた――言葉を投げた。
「……記憶が、戻ったんだな?」
 試すように、探るように、けれどどこか確信をもった声で。
 キレスの瞳がはっと開かれる。それを聞いていたヒスカもまた、驚きを隠せない様子でケオルを見た。
「どういう、ことなの……? 何故それを……」
「こいつら二人が北に行って引っ掻き回してきたのなら――北はいくらか戦力を欠いた状態であるはずだ。そうでなくても、王のいるこの場にたかが報復目的で手を出すにはリスクが高すぎる。それでも“今”やつらがここを攻める理由があるとしたら、それは――『奪われてはならないものが奪われた』」
「それが、キレスの封印された記憶だと、言うの……」
「……。それ以外に、考え付かない」
 ヒスカの問いに、ケオルは少し答えにくそうに返す。
「それじゃあ……北神たちは、キレスの記憶をまた奪おうとしているの……?」
「あるいは、キレス自身を、手に入れるか、滅ぼすか、するつもりかもしれない」
 低く警告気味に声し、ケオルは再びキレスに目を向ける。ヒスカも同じように、彼を見た。
(北神たちの目的は、キレス――)