流転
彼がここを見つけたのは昨日のことだった。目的の海岸は南北に一キロ以上はあろうかという広大な砂浜を有していて、夏の遊泳はもちろんのこと、夢で描くようなどこまでも続く水平線と空とを見に観光客が絶えないところだから、寒いオフシーズンでさえ公営の駐車場は都会並みの駐車料金を取る。散歩がためにわざわざそんな高い金を払っていられるかと周辺をぐるぐると走らせていたら、いかにも地元の人な様子をした軽トラックが迷いなく小道に入るのを見つけた。アスファルトはぼろぼろになって、防風林を突き抜けて運ばれる砂と土がやや優勢になった悪路を抜けると、この空間に出た。あまりに自然であったから、「ゴミを捨てるな!」と赤いラッカーで作ったであろう、吹き飛ばされそうな立て看板を見てひとまず引き返そうと思うほどであった。
人ひとり通れるだけの幅の、まさに獣道を進む。森になりかけたような防風林のゾーンを抜けると、洞窟を彷徨い歩いたのちやっと抜けたような解放感と共に、圧倒的な砂浜と猛る海が歓迎してくれる。公営駐車場とそれに付随して整備された海水浴場からはやや離れた位置であるから、ずっと雑であちこちにゴミが埋まっているが、彼にはこちらのが断然心地よい。
普段住む場所のとは明らかに違う、湿り気と特有の臭気を含んだ風が吹き付ける。まるで包み込まれる、というより纏わりつかれるような感覚はけして気持ちの良いものではない。あいにくの曇り空のせいもあるだろうか、もう今にも降りだしておかしくないほどに灰色の濃淡を斑に塗りたくった空が、一層空気を重くしているようだ。舐められるような不快感が彼の首筋を這う。
まだ暖かくならないが、しかし確かに春の様相になりだした日々は、だれかれ構わず、憂鬱と期待を押し付けている。芽が吹く始めた様子はどういうわけか、無慈悲に優しさを沸き立たせる、時折吹く生ぬるい風は、否応なしに抱きしめるような温もりは感じられず、ただ突き飛ばしていくだけの、つまり乱暴なものである。
湿り気を含んだ砂を踏みつけながら歩く。遊ぶのに丁度良い質感であった。時折来る海風で大げさに舞い上がることもなく、静かに、厳かに在る彼らはきっと、子供たちに大きなお城を作ってあげるのだろうし波にさらわれ徐々に崩壊することのある種の快感と強く残る思い出とを生み出しているに違いない。かくして焼き付けられた感覚はやがて郷愁となって、またこの地に訪れさせることを画策しているのだ。誰のためでもない自分のために、引っ掻かれたようなもどかしさに似た痒みをつけ、また擦るために、彼らは静かにあるのかもしれない。
日本でも有数の面積を有しながら、人に感動を与える強さを持ちながらも、喧騒とは遠く離れた地であるのはやはりここが一つの寂しさを抱くからかもしれない。太平洋と真っ向から向き合うから波は強く冷たい。ひとたび曇り空になってしまえば、それが常であるかのように、おそらくそれが本来の姿であるかのような雄大な悲壮感を充実させる様はとても団欒に楽しみを付与してくれるとは思えなかった。つまり、こんなにも孤独を感じる絶景なのだ。あたかも拒絶されているかのような、不可思議だが、痛くない無数の針に刺されているような、決してたどり着けない遠くから溢れ出す情けのない優しさは、温かさを求めない人にとってどうして居心地のいいものなのだろうか。
いっそ大粒の雨でも降りだしてくれればいいのにと彼は曇天を一瞥する。歩き出す先に建物もなければ待ち人もいない。ただずっと砂浜が続くだけで、目的なんてものも見つからなかった。上着と耳の後ろの隙間を舐める風は磯の匂いを持ってきた。
彼はうつむきながら歩いて、半分に割れた貝殻を蹴り飛ばす。重たい砂がふわりと立ち上がり、あっという間に景色に戻る。ほんの五センチほど飛ばされて裏返しになった貝殻に睨みつけられたような気がして、彼は目をそらす。目線の先の白波がじゃれるように浜に乗り出しては、楽しそうに引き下がった。
「辞めなくたって、いいのじゃないのか。もう一度よく考えなさい」
まだ東京にいたころに、上司からかけられたこの言葉の意味を、彼はまだ考えていた。
学校を卒業し、当然のように会社に入って、社会の歯車として、小さな歯車として動くことに彼はなんの迷いもなかった。ルーティンに思える日々も決してつまらなくはなかったと振り返る。人間関係も中々、成績も悪くはない。幸福とは思えなかったが、ワイドショーで特集される貧困を眺めていられるほどに満足していた。
上を見上げればはるか遠く、下を見下ろせば想像を絶する暗闇が眼下を覆う位置にいると、自覚している。盤石なものでないにせよ、上に下にと巨大な塔になった人間社会において今いるところが丁度良いところなのだと。
夢も見た。階段を駆け上がり、雲の上に立つ夢も。しかし彼にはあまり満足のいかない、満足というよりも、気持ちの良くないものであった。眼前には青い空と燦々と煌めく太陽が己の栄光を表すように歓迎していたが、眼下に広がるのは柔らかな雲ばかり、それは到底誇らしい景色ではなく、夢はあくまで夢なのだとむしろ強く自覚させられるものになっていた。
こうして居場所を失った彼に、彼に期待を抱く人の言葉は周りを流れる風のようにささやかであり、霧散していく実態のないものに感じられたのだ。強く、強く思いを抱く者とそうでない者との間には、違いは歴然と現れるものである。
白波がたてる潮の声は、一度離れた彼の魂に確かに届いていたが、不思議と意味を持つものではなかった。不規則なような、規律を持ったかのようなコーラスに似た響きでもって、万人に――声すら届かない彼に――感動させる力を与えていたが、その方向がいったいどこに向いているのかは甚だ不明であった。
しかし、左耳から聞こえるコーラスと右耳から続く木々が奏でるオーケストラ、そして自らの動きに合わせて足の裏から応える声が、まるで自分が荘厳な景色の一部であるかのように、大きな舞台だけでなく、観客席も、空間も取り込んだ一つの世界の住人であるかのように彼の心を楽しませているのは否定するべきでない事実である。
おおよそ、この陰気な曇天すらも、自分を認めてくれているような気さえ、起こさせる。
次第に強くなる歩調と、不思議と湧き上がる活力とを味わっていると、辛いもののように思えていた決断が、やはり少しも愚かなものではなかったような気がしていた。意思が無かったわけではない、無気力になったわけでもない。確かに感じた違和感と意識の向こうに主張していた元気とが、お互いを認めた結果なのだと、ふと思えた。
ずっと続く、けれども永遠ではない砂浜を歩きながら、彼は雲に霞む太陽を見た。