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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 二、大地の章

INDEX|27ページ/48ページ|

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「“予言”が偽り?」地の長の怒りを受け流すように、火属の男は嘲笑を消さない。「月を退けさえすれば、王位はハピ神に与えられるのだぞ。これらはすべてハピ神の問題だ。我らに介入の余地はない」
「ハピが己の意思で月を退けようなど、あるはずがないわ!」
 地の長は怒りに我を忘れ、叫んでいた。その声は鋭い刃のひと薙ぎのように、神々の雑言をたちまち封じ込める。
 ところが火属の男はいよいよおかしいというように喉の奥をくつくつと鳴らしている。
「かわいい甥御の狂恋にご心痛とは……!」
 地の長は、その瞳を冷ややかに細め、再び口を開いた。
「狂恋などであるものか。……あの紫水晶の瞳をした月の娘は、人心を操る魔性の力を持っておる。
 ウシルの聖なる血は、先妃との交わりにより命の流れ『生命神ハピ』を生み、現妃との交わりにより光の時間『太陽神ホルアクティ』を、次いで闇の時間『月神アンプ』を生み出した。末子である月の姫アンプは、ウシルの聖なる力の“澱《おり》”――。そのことに、現妃が気付いておらぬはずがない。自身こそが、月を産み出した母親であるのだからな……!」
 地の長の言葉は、声にならない動揺を地と火の両属に広げたようだった。大いなる力をもって世界を創造したという先王ウシルの娘が、人心を操る魔性の力をもつなど……。しかし、対峙する火属の男さえ険しい表情を浮かべたのは、それが否定しきれないことであると感じていたからに違いなかった。
 地の長はなおも言葉を続けた。
「月は目に見えぬ怪しげな力でハピに取り憑き、その心を蝕み続けておる。ハピは月の意思の通りに動くだろう。その裏に現妃の意思があるとは知らず、な」
「それを示す証拠はあるのだろうな、地の長よ」火属の男がたまらず声する。「我らが長への愚弄は、その夫たる亡き王ウシルへの愚弄も同じ」
「昨日の王妃の発表に、ハピの姿がなかったことが、何よりの証拠。火の長はよほど知恵がたつとみえる。未だその力の性質を知られぬ月を利用すれば、疑いが向くことはないと考えたのであろう。……ハピが月の娘にあれほど執着する訳を、もっと早くに探るべきであった……。
“予言”と“月”を用い、ハピを陥れたその策略。まこと、舌を巻かずにはおれぬわ。それらによって現妃は、まんまと火属の血を最高位に祀り上げたのだからな――!」
 場が静まり返った。わずかな動揺と、募る敵意――。神々は語る二神の動向を見守る。
 やがて、静寂の中に押し殺すような笑いが漏れ、次いで、それは高笑いに変わる。
「――今さら何を言おうが、もう遅い……!」 火属の男の口元に浮かぶ、確信的な笑み。「次なる王はホルアクティ神と、決まったのだからな」
 絶句――。地の長は信じられんというように首を振る。火属の男はさらに続けた。
「地の長よ。先の妃の兄であるからと、また王ウシルがその末端とはいえ地属の血を引くものであったからと、今まで大きな顔をしてきたようだが……もはやそれも通じん。
 貴様らの望む“平穏”など退屈なだけだ。ホルアクティ神は革新を望まれる。――我らの、時代だ――!」
 その声が響き渡るや、歓声と罵声が入り混じり、ついに激しい衝突が起こった。この一瞬で、そこは完全に戦場と化したのだった。
「これが、望みか。火のものよ……」
 炎と砂礫の渦巻く中、地の長は顔をゆがめ、声を絞り出す。
「成るべくして成った事。そうだろう?」
 火属の男の表情にはやはり笑みがあった。
 地の長はおぞましいものを見るように両眼をすぼめ、相手を映していた。
 あたりは今や、火の海と砂の嵐で覆いつくされていた。それぞれの属性を代表する二神は、わずか数分前にしたように、それを収めようとは、しなかった。
 シエンはただ呆然と、それらの光景を瞳の向こうに映していた。
 これが――千年前の、戦の発端。
 自分自身が、長く求めていたもの。
 はじめの王ウシルの死、二人の息子と、王位継承権。
 二神の会話を聞きながら、シエンは今まで知りえなかった多くの事実を、整理しきれないでいた。
 目の前の光景が、冷静さを失わせていた。もしくは、それが本当に整理され、理解されるのを、シエン自身が拒んでいるようでもあった。
 ただ、意思に関係なく入り込む音や映像を、その身で受け止めているだけ……。
 ――そのとき、何か異質な声が耳を掠めた。
「……あかい」
 少女の声。
 長い黒髪を広げ、ふわりと宙に浮かぶその少女を捉えたとき、シエンは思わず息を呑んだ。少女の、紫水晶のように透き通ったその美しい瞳。何もなかったはずの空間に突如現れるその様子も、――似ている。彼の友人である、月神キレスに。
 その身を透明な膜で包み、神々と炎の間を縫うようにして、ときに突如立ち上がる地の柱に行く手を阻まれながら、少女はふわふわと戦場を進む。
 戦場に、その少女の存在は、まるで異質だった。戦慣れていないどころか、そんなものに縁がないというような少女。体つきを見ても十はとうに超えているような少女は、しかしまるで幼子のように、この状況を理解していない様子で、恐れもせず渦中を進んだ。争いあう神々も、彼女に気づくや、まるで忌み物を避けるように争いの手を止め身を引いてゆく。異様な光景だった。
 そうして少女の通った道が開かれてゆくと、ついに、少女は地の長と火属の男の間に降り立った。
 争うでもなく、睨み合う二神の間に立ち、少女は、その張り詰めた空気を意に介さない様子で、ぽかんと二神を見つめ、小首を傾げて見せた。
「赤がたくさん。こんなにきれい。砂は荒れるな、消えてしまう」
 整った顔立ちの、美しい少女は、どこかまだ夢を見ているような、ぼんやりとした顔つきをして、表情が乏しかった。ただ本当に宝石のような瞳を、何の邪気もなく向けてくる。
 まるでこの世のものとは思えない。生きているものでないようなそれに、吸い込まれそうだ。
 その、鈴のような高くか細い声と、紡ぐ言葉の成す意味と。そうして生み出される、現実を切り離したような空気。
 月の娘から生み出される、異質な空間がそこにあった。
 地の長は表情をどこかに取り落としてきたというように、ただ憮然と、月の娘を映していた。
「……、……ければ――」
 低く低くこぼしたその声。少女が振り向き、もう一度確かにそれを掬い上げようと、見上げた瞳をひとつ、瞬く。
 外套がはためく。その紫水晶に映されたのは、長の手にした、剣の刃。
「お前さえ、いなければ――――!!」

 耳を劈く、憎悪の叫び。
 振り上げられた、刃。
 赤い血が、視界を染め上げ、
 暗転――。

      *

 シエンの姉ホリカは、南を訪れていた。キポルオに、会うために。
 生来明るい性格の彼女ではあるが、どんなことにも悩まないというわけではもちろんなかった。ただ彼女は、抱えた不安や悩みをどう処理すればよいかを、よく知っていた。
 代表としての責任を感じたり、判断に迷うときは、同属の高位神であり、また同じ神殿代表の立場である風神ヤナセに相談したし、ちょっとしたことなら、同じ神殿の女神たちとあれこれ話しているうちに心が軽くなる。そうして、溜め込む前に小さく溶かしてゆき、ゆっくりでも、消し去ることができた。