記憶のない空
すべてを失ったことがある。
その時、入れられた精神病院の中のまた奥、拘束部屋の中で、衰弱しきって生死の境まで行った。
始めは化け物が出た。
部屋の隅に居た、細長いヒト形の、短い筒っぽのような着物を着た、ぼさぼさ頭の、顔のないもの。一目で邪悪なものだと分かった。
天井から無数に降ってきた青黒い蛇。
叫び、逃れようともがいているうちに、意識を失い、また別の意識へと飛んだ。
そこには、見渡す限り、広大な金色の池があった。
太陽がどこかにあるはずだが、ない。
ただそこら一帯が、金色を帯び、大気は爛漫の春のようにあたたかだった。
向こう岸には五重塔があり、即座にわたしは「理解」した。
「ああ、ここは帝釈天さまのお池なんだ」
帝釈天に池、という組み合わせは妙だが、そう感じた。
静かな、気持ちだった。
すると向うから、尾羽がない孔雀に似た、冠をかぶった金色の水鳥が、つがいで泳いで来た。
そばまで寄ると、長い首をさかんにすくうような動きをしてみせる。
「この水を飲めってこと?」
わたしは導かれるように池にかがみこんでその水を飲んだ。
生きてきて、後にも先にもあんなに旨い水を飲んだことはない。
いくらでも入る。
喉を転がり落ちる、沁みわたる、ほのかに甘く芳しい水は永遠の渇きを癒していった。
「もう大丈夫だ。この水を飲んだら、帰れる」
そこで目が覚めた。
「まだ早いのだ。帰されるのだ」と。
その後記憶が戻るまでは一カ月程かかったが。
死ぬのは怖くない、と言えばうそになる。
ただ、なんとかなるし、きちんと「向うの世界はある」ということは解った。
その時から、「瞬間(いま)を生きる」ということが信条となった。
元夫も突然、事故死した。
なおさら、今を精一杯に生きなければ悔いを残す。
人は今を生きる事しかできない。過去にも未来にも生きられない。
だからやり残したくないのだ。
春が来た。
わたしの精神は投薬や家族の支えがなければ生涯だめらしいことは医師に宣告された。時に錯乱たり、激しい上下に苛まれることもある。
また、春が来た。
自分を保つために葬った方がいい記憶を、広大な海の向こうへ少しずつばら撒きながら、移りゆく季節を過ごす。
忘れられず、忘れられ、忘れた。
許されず、許され、許した。
あやふやな弥生の空に、ふわふわと形のない、心の雲が流れてゆく。