海の向こうから
六 かかれた文字は
土曜日、授業はないけど部活があるので朝から学校に行き、練習を終えて家に帰ると携帯に着信が入っていた、松下先生からだった。学校には携帯電話は持ち込めないのでいつもは机に置いている。先生もそれを知っているし、木曜の夜にここへ来た時には特に忘れ物も言いそびれたこともなかったような気がする。
「先生、何が言いたかったんだろう?」
それから私は着信メールを確認した。律儀な先生は私が電話に出られなくてもちゃんとメールを入れててくれる。
「何か分かったんかな?」
私は着信ボックスを開けた。
一度大学までおいでよ。6時までならいるので来れるなら連絡下さい
時計を見るとまだ3時過ぎだ。先生の通う大学には何度か招待してもらったことがあるので、場所は分かる。私は自転車に跨がり、先生のいる大学のキャンパスを目指してペダルを漕ぎ出した。
* * *
「ごめんね、呼び出して」
先生のメールに従って私は大学の食堂に入った。土曜は授業が無いのは大学も同じだけど、クラブをする人、自主的に研究している人、友達と遊びに来ている人など、本業の勉強とは関係なしに案外多くの人がキャンパスを歩いている。今いる食堂も周辺に下宿している学生のお腹を満たすため土曜も営業していて、みんな明るい表情でそれぞれの時間を食堂でエンジョイしている。
「何か分かったんですか?」
「それを解く鍵がやって来るからもう少し待っててよ。ところで何か飲む?」
先生は遠慮はしないでよと顔で言いながら小銭入れに指を突っ込んだ。でも食堂の湯呑みでお茶をすすっている先生見てたらいただきづらいよ。
「鍵がやって来る、ですか?」
「そう」先生は後ろにあるタンクからお茶をおかわりした「それを解く鍵をここに呼んでいるんだ。あ、来た来た。おーい」
先生は私の頭の後ろに向けて手を振った。私もつられて後ろを向くと、真っ白な肌にきれいな金髪で瞳の青いスラッと上背のある日本人が持つ外国人のイメージの典型のような、モデルみたいな女の人がこっちを見るや駆け寄って来た。本人を前にして言えないので、どうみても先生とは不釣り合いなのは黙っていることにした。
「この人はイリーナ・レミスカヤさんと言って、ロシアから来た留学生なんだ。あ、この子が僕の教え子、稲垣麻衣子さん」
「イリーナです。よろしくね」
少しなまった日本語で、差し伸べた雪のような白い手を握った。体温は変わらないはずなのに少し冷たく感じた。
「早速だけど教えてあげて」
先生が私にレコードを出すよう指示したので、私はボロボロのジャケットから黒い円盤をイリーナさんに出して見せた。
「イリーナさんは、何を分かったんですか?」
「これですよ、コレ」
イリーナさんの白い指先はレコードのラベル、ローマ字で
Каuнохама
と書かれたところ、それも真ん中辺りの「u」を差してニコッとした。
「コレはローマ字ではありません。キリル文字です」
「キリル文字?何、それ」
「ごめんよ、僕もうかつだった」先生は自分がとったメモを広げてテーブルの上に置いた。
Κаuнохама
「字面しか見てなかったのでиをuと思い込んだんだ」
「それはよくある間違いなのです」
二人は理解してる様子だけど全然解っていない私の顔に気付いたイリーナさんはキリル文字について説明をしてくれた。
キリル文字というのは主にロシア語で使われる文字のことで、ギリシア文字を由来とし私たちが普段使うローマ字(ラテン文字)とは似てるけど異なる文字である。キリル文字では「Κаuнохама」はすべて使われている文字であるが先生の手書きの「Κаuнохама」の字。手書きではuと書くけど、正しい字は「и」で、ローマ字のnがひっくり返ったものだ。「а」の字も同じで、キリル文字では小文字も「а」と書く。ローマ字を書く人にはよくある間違いなのよ、とイリーナさんが教えてくれた。
「それで、これはキリル文字では何と読むのですか?」
イリーナさんは先生のメモの字を五つに分けて一つづつ読み上げた。
「これはキリル文字では『カ、イ、ノ、ハ、マ』と読みます」
ちょっと日本語離れした発音に戸惑ったけど、日本語のようにも聞こえるが意味がわからない。
「それはロシア語ですか?」
「ニェット、違います。日本語じゃないでしょうか?」
「カイノハマ、何それ?相撲取りの名前?」
先生の口から冷たい笑い声が溢れた。こっちは真剣なのに。
「違うよ、日本の地名だよ、ほら」
先生は開いたままのノートにカイノハマの地名を漢字で書き綴った。
「ああ、『貝浜(カイガハマ)』だ!」
「だから『貝浜(カイノハマ)』ね」
貝浜といえばここ甲山から車で一時間ほどの日本海沿いの小さな岬だ。レコードを拾った浜からはそう遠くない。そこへは行ったことがないので知らなかったけど「貝浜」はてっきり「カイガハマ」と読むものと思っていた。日本の地名や人名は読みづらいところがあって難しい。
キリル文字で書かれた日本語のタイトル。じゃあこれは日本のもの?ロシアのもの?
「イリーナさんは『貝浜』って歌は知らないですか?」
「ダー、知らないです。そこがどこにあるのかも知りません」
日本海の向こうにロシアはある、そこから漂流してくる可能性はあるだろうけど日本語のタイトルの歌なんだから、このレコードは貝浜から漂流してきたものだろうか?だとしても私が拾った場所は寄房(よりふさ)という隣の港町だ、こんなに古くなってるのも変な感じがする。
「貝浜とキリル文字を繋げるものがあれば、これが何であるかは分かるんじゃない」
「ホントだ!」私は手をパチンと叩いて喜んだ「次の舞台は貝浜だ、行ってみようよ、先生!」
「私も行ってみたいです」
イリーナさんも乗り気だ。日本ではキリル文字表記を見る機会は少ないからとても親近感を覚えたみたい。
「じゃあ今回も『足』を出そうか……」
「そうだね……、できる?麻衣子さん」
以前も同じようにこんな感じで私がひょんな発見をしたことから先生と調査をした経験がある。その時はおじいちゃんが車を出してくれた。今回もまた、おじいちゃんの力が必要になると先生と顔を見合わすだけでわかった。
「『でこぼこ調査隊』再結成だ」
「正しくは『でこぼこ調査隊プラスワン』だ」
二人で笑っているところにイリーナさんが
「それをいうなら『プルース アディン』です」
ロシア語で訂正するとみんな笑い出した。