睡蓮の書 一、太陽の章
中・かがやき・3、希望
気がつくと、太陽は東の地平をとうに離れていた。
ラアは寝台から跳ね起きる。そこは、自分の部屋だった。
あわててカナスの槍を探す。……傍の机に置いてあったそれは、確かに、ひとつに繋がっていた。
目をまん丸にして、昨夜のことを思い出す。たぶん、昨夜だったと思う。
あれは、夢ではなかった。夢ではなかったけれど、結局、分からないことだらけだ。
首をかしげて、考える。――考えても、分からない。
そうしているうちに、ラアは神殿に複数の気配があることに気付いた。
(……あ、そうか!)
ひとつの気配の主はすぐに分かった。ヒキイが、戻ってきている。
中庭に着く前には、他のものが誰なのか、すっかり見当がついていた。そろそろ、月に一度の定例議会がひらかれる時期なのだ。
「起きたのですか、ラア」
ヒキイは変わらず、穏やかな笑みでラアを迎える。毎日聞いてきたその声が、なんだか久しぶりに感じた。
「もう昼になるぞ、ラア。寝坊か?」
ヒキイの後ろから、男神が現れ、笑みかける。陽に麦色に輝く長髪をしたその人は、東の代表「風神メンチュ=アメン」のヤナセ。ラアよりずっと年上の彼は、風属の長である。
「いいの! 昨日いろいろ、頑張ったからね!」
何を頑張ったのかは自分でもよく分からないが、ラアは自信満々にそう言った。
「ちょっと……これは、何なの!」
その向こうから女神の、悲鳴に近い声。
「一ヶ月よ!? どうしたらこんなに生長するの!?」
西の代表、ホリカだ。ほらね、思った通りおかんむりだ。ラアはふふふと声を漏らして笑った。
「わかってます。シエン、あの子ね!」どうやらホリカは、ヒキイから弟の滞在を聞いていたらしい。「まったく、人の気も知らないで……。南の広い森と一緒にしないでほしいわね。まったく、ほんとに……」
ぶつぶついいながら、木々の剪定を始める。
定例議会のあとは、いつも賑やかだ。議会は午前中にひらかれ、ラアは時々しか出席しないが、ホリカやヤナセは、そのあと必ず声をかけにきてくれる。
「それにしても、あとひと月とはな」
いつの間にか、ヤナセが傍に立っていた。細く、柔らかそうな長髪が、風神である彼の身を包む風に、さらさらとなびいている。
「ラアは、十年前に会ったときから変わらないな」
言いながらヤナセは、ラアの頭を、小さな子にするようにぽんぽんと叩いた。
「もう、おれ王になるんだから!」
迷惑そうな顔をしてみせたが、本当はヤナセの大きな手の重みが好きなのだ。
「そうよヤナセ。気軽に『ラア』なんて呼んでちゃダメじゃない」
ホリカが口を挟む。ラアは、自分で言っておきながら、なんだか複雑な気持ちになった。
「おれ、『ラア』でいいよ。そのほうが、いい」
「ほら、王がお許しだ」ヤナセはそう言って、おどけたように笑って見せる。
それから、すっと遠くを見るようにして、彼は静かに、言った。
「――なあ、ラア。お前は先代の王とは違う。歴代の王ともまた、違うだろう。だが、何者かになろうとすることはない。今のお前のままで、十分、立派な王だ。
“誰もが持ちえぬ、その輝きゆえに”」
そうして、ラアの背後に寄り添う、太陽神補佐、ヒキイを見る。
それはラアの父が、そしてヒキイが、繰り返しラアに伝えてきた言葉。ヒキイはそれにゆっくりとうなずき、加えた。
「予言書の冒頭に、記されたとおりに」
ラアの瞳に宿る力を、予言書と結びつけたのは、ヒキイの仕えた先代の王、つまり、ラアの父だった。
予言書の冒頭に記された一節――“汪洋の青”は天にとどまる水としての、“天穹の青”は空高く覆う天蓋としての、どちらも共に、天空を表現していると考えられている。
天にあって、地に注ぎ、光を開くもの。すなわち太陽をあらわしているに違いないと。それゆえ「ケセルイムハト」と呼ばれる、戦の終結の象徴は、太陽神のことであると信じられてきた。しかし戦の終結はこれまで、どの王の下でも達せられずにいた。
ところが、先王のもとへある言葉が献ぜられる。
“終わりを定めし大いなる力、その瞳に宿らん”
月属神――その特異な力で、“今起きている”また“既に起きてしまった”事実を、確実に知れるという、彼らの言葉。それはこれまでも、王の決断に少なからぬ影響を与えてきた。
過去の王たちがしてきたように、先王もまた、その言葉に耳を傾け、そして当然のように、それは次期太陽神となる息子、ラアと結びついたのだった。
「お前ならばと、私もそう思うよ」
ヤナセの手が肩に置かれる。力強く励ますような笑み。大いなる風の支え、その祝福を、ラアは静かに受け止める。
目を細め、それを映しながら、ヒキイはもう一度うなずいてみせた。
「あなたの力を望むのは、我々だけではありません。千年の、悲願なのですから」
遠い昔、はじめの太陽神が王の座に就こうとしたとき。
それに異を唱えた生命神は、この地を縦断するただひと筋の大河を氾濫させ、その水は十五の月にわたって大地を覆い続けたという。
洪水に飲み込まれ失われた多くの命。天では厚い雲が陽を覆い、太陽からの光をあてに育つ多くの植物が腐り果て、動物たちは生きる糧を失い、さらに多くが滅び去った。かろうじて命をつないだものも、蔓延する疫病の脅威から逃れ難く、生の時を延ばすほど積み重なる苦痛を強いられた。
惨劇から千年。太陽神と生命神の争いは、その代ごとに繰り返されてきた。
永遠に続くかと思われたこの戦。それも、今、さまざまな「兆し」を見せ始めている。
二重の称号。複数の月属神の存在。千年来現われなかった神位の再生、そして、王となる存在がもつ特異な瞳。――どれをとっても、ラアの治世はこれまでと違う何かを暗示させる。
望まずにはいられない。……そう、先代の王が願ったように。
「ラア、起きていたのね」
もう一人別の女性の声に、振り向く。東の治癒女神、水属「医神セルケト」のヒスカだ。
「あなたのお姉さまも、変わりないわよ」
安心ともつかない複雑な表情をして、彼女はそう告げた。
「ねえ、カナスはどう? そっちに行ってるんだよね」
ラアが尋ねると、ヒスカはふっとやわらかく笑みを見せ、
「それは心配ないわ。もう少ししたら、ちゃんと戻ってくるわよ。大丈夫」
良かった。心の底からほっとして、ラアはにっこり笑むと礼を言った。
「では、我々はこれで」
ヤナセが言う。その妻ヒスカが寄り添い、小さく会釈した。
「ヤナセ、『彼』への伝言、頼みましたよ」
ヒキイがその背に声をかけると、ヤナセは振り返り、ああ、と手を振った。それからもう片方の腕も広げると、それは瞬く間に大きな白い翼となり、同時に一陣の風を呼び起こす。彼は地を蹴ると、妻を連れて大空高く飛び立った。
いつ見ても、気持ちいい。風属の長の見せるその力は、力の大きさだけでなく、その美しさでも、ラアの心を虜にした。初めてそれを見たときから、ラアは何度もそれを真似ようと試み、そうしてやっと、鳥などに変身する術を自ら身につけたのだった。
「ねえ」
ヤナセを見送ると、ラアはくるりと振り向き、ヒキイを見上げる。
「『彼』って、だれ? 何の話?」
作品名:睡蓮の書 一、太陽の章 作家名:文目ゆうき