AI-TRAS
「出来ないとは言い切れません。コンピュータとはいえ、一部に生体コンピュータ技術を応用しています。今朝、アイトラスが作成した臨時ダイヤをご覧になりましたか?」
「湖西線のか。ああ、あれは確かに立派だったが」
「臨時ダイヤの作成には、主体的な判断が必要ですよね。たとえば、あえて運休にするとか、発着番線を変更するとか、新快速を各駅停車に変更するとか」
「ああ」
「生体コンピュータによる人工知能はそのために組み込まれています。ある意味で、アイトラスは意志を持ってるんです。もちろん、僕たちの言葉は話せませんが」
「にわかには信じられんな」
「……僕もです」
総括指令長は技術者を睨んだ。技術者は震え上がる。
指令員の一人が会話に割り込む。
「だとして、一体何が目的なんですか?」
技術者は答えた。
「……それは分かりません、直接しゃべれるわけではありませんから。ただ、確かなことは、ダイヤを入力しても、アイトラスが消してしまうということです。『電車を動かしたくない』ということでしょうか」
総括指令長は咳払いをする。
「いや、結果を考えれば分かる。関西全域の電車を止めてうちは大損害だ。ブルートレインが止まれば鉄道ファンからも大ブーイングだろう? それに、電車が暴走し、作業員を轢き殺しかけたんだ。会社としての信用はがた落ちだ」
指令長の数人が頷く。
「つまり、私怨ですな」
「技術者の中に私怨を持った奴がいたんだろう」
「もしくは、アイトラス自身がそう思っているのかもしれません」
と、技術者。
総括指令長はため息をついた。
「こうなったからには、安全が確認されるまで全線運休だ」
そのとき、指令員の一人が叫んだ。
「暴走! 無人電車が、また暴走してます! 山崎駅からの連絡です」
「何だと?」
「また、無線連絡がありました。今、無人電車は警笛を鳴らしながら摂津富田《せっつとんだ》を通過中です」
技術者はしまったと思った。アイトラスをリセットしたとき、無人電車は止まるどころか暴走を続けたのだ。その間に踏切はいくつもある。事故が起きなかったのが奇跡だ。
「おい、お前、路線図をスクリーンに映せないのか?」
と、総括指令長は技術者に言った。
技術者は電話を取る。
「至急、列車の位置をスクリーンに映して下さい」
『なぜ? 今全て復旧させるのは――』
「いいから早く!」
数十秒後、スクリーンに路線図と列車の位置が表示される。無人電車は摂津富田駅から茨木駅に向かっていた。しかし、茨木駅一番のりばには、既に新快速電車が止まっている。その電車は回送扱いになっておらず、そこにはまだ乗客が残っている可能性があった。追突されれば死傷者が発生するに違いない。
ただちに、指令員が無線に叫ぶ。
「三四三五M、直ちに発車してください! 三四三五M直ちに発車してください」
*
新快速三四三五Mは、茨木駅一番のりばに臨時停車していた。振り替え輸送も開始されたが、他の交通機関まで距離があるためか、まだ車内に残っている乗客もいる。
運転士は電車の外で大きなあくびをしていた。いつになったら電車は動けるのだろうか。出発信号機の一つは青になっているが、あれは下り内側線への出発信号だ。この電車は下り外側線に出発しなければならないため、どのみち発車することができない。
ふと、彼は無線の声に気がついた。
『三四……運……せよ! ……五三M……』
また、どこかの運転士が誘導されているのだろうと思いながら、彼は気に留めなかった。どこかから聞こえる警笛と関係があるのだろうか。
そのとき、電車のドアが閉まった。運転台から『ブー』というブザーが鳴る。普段は省略される、車掌からの発車合図だ。あえて鳴らすということは、今すぐ発車する必要があるのだろう。運転士は電車に飛んで戻った。だが、外側線への出発信号は赤のままだ。
『ブー、ブ、ブ、ブー』と、車掌からのブザー。通話を求める合図だ。運転士はブザーで合図を返し、受話器を取った。
「どうしたの?」
『はやく発車して! はやく!』
いつもは氷のような女性車掌が、珍しく取り乱している。何かは分からないが、どうしても発車しなければならない事態が起きたのだろう。彼は高加速スイッチを入れると、マスコンレバーを引き、フルノッチで発車した。
しかし、一体何が起きたのだろうか。運転台にいては状況が把握できない。
列車無線からも慌てふためくような声が聞こえてきた。
『三四三五M運転士、応答してください!』
「こちら、三四三五M運転士。どうぞ?」
『後続の電車が追突します!』
このとき、運転士は事態を把握した。車掌があそこまで慌てていたのは、後続の電車がすぐそこにまで接近していたからなのだ。だが、なぜ後続の電車は停車できないのだろうか。
受話器から車掌の悲鳴が聞こえる。あの冷静沈着な『氷女』の悲鳴だ。危機的事態であることには間違いない。
運転士の脳裏に最悪の事態がよぎった。もし、このまま追突され死傷者が出れば、間違いなく責任を追及されるだろう。発車を指示した指令、駅で乗客を降ろさずにドアを閉めた車掌、そして運転台から離れていた彼自身。テレビに裁判の被告として映る自分のイラストを想像して、彼は震え上がった。
しかし、まだ事故は起きていない。彼は車掌に指示を出す。
「お、落ち着いて、お客様を前方に避難させて」
自分も冷静でないことは分かっている。だが、人的被害だけは最小限に留めなければならないのだ。
電車は分岐器を通り、内側線に渡る線路へと入り始める。ここで速度を出せば脱線してしまう。彼は脂汗をにじませながら、ノッチを切った。あとは追突も脱線もせずに内側線に逃げ切ることを祈るしかない。
受話器を通して、車掌の悲痛な声が聞こえる。
『もうぶつかります!』
「運転士は? 寝てるのか?」
『乗ってないんです!』
「乗ってない!?」
運転士は窓を開け、顔を出して後方を確認した。最後尾の車両が分岐器を通り抜け、外側線から内側線への渡り線に入るところだった。その直後、後続の電車が顔を見せる。彼の心臓は縮れ上がった。最後尾の車両とは、電柱と電柱の距離よりも近い。あそこまで接近していたのか、と運転士は驚いた。ここからでは、後続電車の運転士の有無は確認できないが、乗っていたとして正気の沙汰ではない。
運転士はマスコンレバーを引き、再び電車を加速させる。あの距離ではいつ追突されてもおかしくないからだ。全身に汗が流れ、彼の心臓は張り裂けそうになっていた。もうだめかもしれない、彼は覚悟した。
だが、後続の電車は分岐器をこちら側に向かわず、そのまま外側線を走り続けた。
『……あ、離れていきます』
車掌の安堵のため息が受話器越しに伝わってくる。追突は回避されたのだ。
しばらくして、無人電車は隣を追い抜いてゆく。運転士は、ほっとしてブレーキレバーに手をかけた。
*
無人電車は吹田信号場への連絡線に入り、その動きを止めた。作業員から無人電車のパンタグラフを下ろしたとの連絡が入り、指令員たちは安堵の表情を浮かべた。もうこれで無人電車は暴走できない。人身事故は未然に防げたのだ。