LOVE FOOL・前編
記載が全く無いのか、自分達が探しきれないのかすら解らない莫大な情報量に天井を仰ぐ。
高慢な顔に疲れが見え始めた頃、明朝には発たなければならないとアストは開いていた本を両手で閉じた。
「この数時間でお前が有能なのはよく判った。
そのお前が知らないというのなら、きっとどの書物にも載っていないのだろう」
帳は落ち、研究熱心なこの街にも徐々に人の気配が消え始めている。
元々「知らない」と答えれば済む話だったのだ。
それを、何の関わりも無いヴィヴィアンが、自分の事も後回しに「呪い」の正体を暴くべく文献をと
文字を追う。アストライアにはその気持ちで十分だった。
「明日にはお前の濡れ衣を晴らして、そこでお別れだ。ヴィヴィアンヴァルツ」
―ありがとう。
口を開けば生意気な台詞しか聞けない男から、ふいに投げられた感謝の言葉に思わず蒼紫の瞳を
向ける。礼を言われた理由に心当たりが無いと首を傾げた仕草にどきりと息を呑む。
「ふん。役立たずが…偉そうに」
「…。」
一時でも見惚れた自分に腹が立つ。
喉にまで出かかった怒声を呑みこみ、撤回するのも大人げないと無言で淡いブルーのマントを翻した。
(結局解らなかった…)
欠伸を何度も零し、壁に頭を擦る。
その後、アストライアと別れ夜が明けてもヴィヴィアンは一人文殿に残り記載の有りそうな魔導書を
繰り返し読み解くも片鱗すら解呪の手がかりは掴めない。
円陣は召喚に用いられる事が多いが、アストライアの掌はそれともまた違う気がした。
媒体のメダルを手に入れる事が出来れば何か解けるかもしれないが、と個室のドアに凭れて蹲る。
研究を赦された有能な者だけに与えられる真新しいこの部屋は持ち主同様に質素な一室で
高級魔術師とは思えない佇まいだった。
日付が代わり、人の気配がまばらに戻る早朝の時刻。
もしかすると眠っていたのかもしれない。
厳かなステンドグラスから陽の光が床のタイルに蒼色を乗せる頃、人よりも少し遅い彼特有の歩調がゆっくりと此方に近付く。
彼とはバアルの一件から一度も口を利いていない。
向こうから何事も無かった様に話しかけてくるのが当然だと思っていたヴィヴィアンは、友人を抱えた
まま涙を枯らす姿に声を掛けられなかったのだ。
―今までは。
避けられているのなら待ち伏せるまで。
街から離れるのは数日だけとは思えど、今の状況のまま別れるのは嫌だった。
ヴィヴィアンの心境の変化は奇しくもメーガナーダの影響だ。
自分の言動が人の精神構造をも狂わせる。
其処まで自分を恨むとは思わないが、それでも自分が呼び寄せなければ二人は今も無事でいられのは事実。それを何と言えばいい?
指先に引っかけた金色の鍵をくるくると回し、ヴィヴィアンは顔を上げる。
遠目でも解る白銀の髪に歩調が掛け脚へと変わった。
そのタイミングまで以前と少しも変わらない。
「ビビ…!?え…床に座り込むなんてどうしたのっ!?」
滑りこむ様に自身も床にぺたりと座り込み此方を深く覗き込む。
息を切らし駆け寄ってくる反応にどんな表情を向けていいのか判らず、むっと口を結で上目がちに
ブリジットを見据えた。オリーブ色の緑瞳は呑気なままで、ヴィヴィアンは顔を逸らし歯切れ悪く応える。
「…その…この街で、信用して屋敷と掃除を任せられるのは、お前しか居ないから。
鍵を渡しておこうかと…」
―ちゃり、と。
金色に赤い石のはめ込まれた鍵を両手で受け取り、ブリジットは瞳を瞬くが直ぐにその両眼に
涙を溜める。無言で涙を零す青年に後ろめたさも忘れ、思わずヴィヴィアンは叱り付けた。
「何で泣くんだよ!俺が泣かせたみたいじゃないか!」
「ごめん…だって、僕は。肝心な時にいつも役に立てなくて…」
忙しなく両手で瞼を拭い、背中を小さく丸める姿に胸のつかえが落ちる。
ブリジットもまた同じだったのだ。
自分のした事、ヴィヴィアンに放った言葉を悔い、どうしても顔を合わせられなかった。
自分がもっと早くに勇気を出していればアースは死なずに済んだのだと。
そしてそれをヴィヴィアンのせいにしている心の醜さが赦せなかったのだ。
ヴィヴィアンに暗殺の容疑が掛けられたと聞いた時も、ありえないと思いながら声を上げる事が出来なかった。
「気にするな。お前の助力は始めから期待してない」
「酷…っ」
何事も無い風なヴィヴィアンの言葉にくしゃくしゃに歪んだ泣き顔が和らぐ。
自分の胸に額を付け、抱きつきながらも一向に泣き止まない友人の頭を軽く叩き魔術師は再び
扉に頭を付ける。
―なんだ。
強張っていた肩から力が抜け、冷えた麗貌が微笑に変わった。
こんなに簡単な事だったのか。
ヴィヴィアンヴァルツの胸に身を埋め、泣きじゃくるブリジットを何事かと学生達が遠巻きに集まり始め
漸く二人は身を退いた。
「ごめ…っ!ごめんっ、なんか恥ずかしいね!?」
瞼を真っ赤に腫らし、ヴィヴィアンの乱れた上着を慌てて正す。
それはどう見ても従僕の様な扱いだ。
人混みを掻き分け、目の当たりにした彼もまたそう思ったに違いない。
「ヴィヴィアンヴァルツ…お前はまた弱い者を泣かせているのか」
呆れと軽蔑を含む声で、ため息混じりに吐き捨てる。
「アスト…っ!」
「?」
きっと眉を吊り上げ、立ち上がるヴィヴィアンと腕を組み一歩も退かない見慣れぬ騎士とを見比べ、
ブリジットは恐る恐る訊ねた。
「…ビビ、お友達?」
『 違 う !』
二人同時に怒鳴られ哀れなブリジットはひっ、と悲鳴をひとつ呑み込む。
まるで他人に関心の無い孤高のヴィヴィアンヴァルツがどこかしおらしく、取り巻きのブリジットと親密そうに抱きあっていたかと思えば、見慣れぬ部外者の騎士達に連れられ喧騒に文殿から連れ出されてゆく。
目まぐるしく変わる状況に、傍観者達は色めきただ彼の姿を眼で追うばかり。
好奇心に駆られ後を着いて行く野次馬も一人や二人に収まらない。
広間に停滞する騎士の一団を邪魔そうに眺めていた住人も騒ぎにおのずと道を開けた。
「俺はまだ何の準備もしていないのに!」
「する気も無いくせに。それに準備が必要なほど長居する気だったのか?」
「う…」
一切の荷物も持たせず、厳つい騎士団率いる馬車に細身を押し込むとアストライアは戸惑うユースティティアに
出発を促す。
旅の支度をする気があるのなら昨夜の内にしている筈だとアストライアは視界を流れる街並を眺めた。
国の使いなら日用品の予備も整っているとも知っている。
これは旅行ではないのだ。
整った美貌からは想像もつかない声音で怒鳴り散らす魔術師に怯えを見せながら、ラモナの騎士は甲冑と国旗を奮わせイエソドを離れた。
王族を乗せる為の物とは違う護送仕様の車体はシンプルな檻に似ている。
けれど乗り込んでしまえば車内は思うより広く、無駄な装飾が無い分アストライアにはかえって居心地が良い。隣のヴィヴィアンは始終窮屈だと喚いていたが、数時間も経てば諦めたのか車窓を眺め憮然と口を尖らす。
灰色ばかりの人工物から自然界の木々と大地へ。
作品名:LOVE FOOL・前編 作家名:弥彦 亨