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さくらの木

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『さくらの木』

正樹は十八歳とき、東京の大学へ進学するかどうか迷った。だが、家に貯蓄と呼べるほどの蓄えもなかったことや、家を離れることがためらいもあったため、結局、進学をあきらめ、地元の会社に就職することにした。

 家があって、両親がいて、犬がいた。笑いの絶えない家だった。近所からも幸せを絵に描いたような家庭だと言われた。それが、就職してから十年のこと、正樹が二十八になったときである。犬が病死した。その半年後、父が突然倒れ、あっけない最期を迎えた。父の死を境に母は別人のように口数が少なくなり、さらに、その一年後に交通事故で亡くなった。突然、正樹一人がこの世に取り残された。あまりにも自分の身に起こったことが理不尽なことに思えて、悲しみに暮れ、自暴自棄になり、酒に溺れた。そんな彼を見かねて、周りの人達が、生き物でも飼ったら慰めになるとか、引っ越しでもしたらとか、結婚をしたらと、いろいろアドバイスをしたが、彼はどれも嘘っぽく感じられ無視した。

ある時、叔父が「随分と前の話だが、お母さんから”庭に何かを植えたから、いい苗木を見つけて欲しい“と頼まれていた。生前、渡すことができなかった。さくらの苗木だ。これを植えなよ」と言って、苗木を渡した。言われたとおり、庭に植えた。春、夏、秋、冬と季節が過ぎ、数年後に花をつけた。苗木が力強く育つさまを見て、正樹はこれが生きることだと気づいた。同時に、自堕落な生活をあらためようと思い酒を断った。

季節の変わり目には、正樹は必ず寺に訪れ墓参りをした。いつしか住職と親しくなった。
三十五歳になった春のことである。その日は晴れていた。美しいさくらが墓地を囲っていた。墓参りを終えた正樹に住職が近づいた。挨拶を交わした後、正樹は住職に尋ねた
「幸せとは何でしょう?」
住職は微笑んだ。
「その問いの答えは難しい。きっと十人十色だ。だが、この世のことは儚いもの。ほんのちょっとことで壊れてしまう。実に脆い」
「まさに僕の家庭がそうでした。かわいがった犬が死に、父、母と次々と亡くしました。昨日まであった幸せが壊れ、あっという間に奈落の底に落ちてしまいました。切なくて自殺を考えたことは数えきれません。でも、できませんでした。このまま何の楽しみもなく人生を終えるのかと思っていたら、庭に植えたさくらが花をつけて、それを眺めているうちに、大きくなることが楽しみになってきました。小さいことですけど、真っ暗な心の中に小さな灯が宿ったような気分です」
正樹は続けた。
「それから、上司が東京で働いてみないかと言われました。会社が東京に進出を決めたのです。転勤したら、墓参りもそんなに出来なくなるけれど、転勤してみようと思いました。大切な家族を失った悲しみは、決して消え去ることはできないけれど、悲しみの底から抜け出すことはできるかもしれないと思って……」
「過去はどんなに悲しんでも戻らないものです。新しい道を行けば、新しい未来があります。そこに新たな幸せがあるかもしれない。きっと、ご両親は墓参りより幸せになることを望んでいると思いますよ」と住職は微笑んだ。

正樹は家に帰り、転勤のための支度をした。
一陣の強い風に、さくらの花びらが部屋に紛れ込んだ。そのとき、庭を見ると、さくらの木が花をついていた。まるで正樹の旅立ちを祝福するように。

作品名:さくらの木 作家名:楡井英夫