僕の好きな彼女
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まあ、あれだ。
誰だって自分が昔どうであったかと思い出すのは、たやすい様で難しいと思う。
記憶力の善し悪しが問題なんじゃない。
単純に『過ぎた時間』とは、自分の中で『アルバムの写真』と同じ程度の意味しか持たなくなるからだ。
ぺらっぺらな記憶と印象と、『どこまでも他者化された自分』という存在が、『狭いフレームの中に切り取られたような格好でそこにあるのを認識する程度』という訳で、『過ぎ去った時間』と『眺めるばかりの記憶である写真』の間には本質的な差が無いと思うのだ。
もう少し具体的にいうならば、五年前の僕が『何をしていたか』を覚えていても、その時僕が『何をどう感じたか』は今となっては分からない様なものだ。
それでも『分かっている』と思うのなら、それはきっと間違えている。
――いや、訂正しよう。
覚えていることもある。
忘れられないこともある。
だけど、ヒトは楽しかったことを記憶しない。
それはけっしてヒトを形作らない。
ヒトが覚えることや、魂に刻み込むことはいつだって相場が決まっている。
それは今現在の自分にとって『後々都合の良いこと』か『単純に印象深いこと』、あるいは深く心に痛みとともに刻まれる『ひたすらに打ちのめされるような悲しい思い』であるか――あるいはそれらの、いずれかだ。
例えば僕の場合、ある年の一月三日にその年のお年玉のすべてを、おもちゃ屋に向かう途中でのし袋ごと落としていたことに気づいたときの惨めさは、今でも忘れがたい。
でもそれは片面的で、前段階として『お年玉をもらったときのうれしさ』は感触として実に曖昧模糊としている。
つまりは、喜びというのは人の気持ちを鮮やかに、柔らかく豊かにしつつも、その意識や記憶には残り難い。
理由は単純で、楽しいときはいつだって気持ちよく過ぎてくれるので、その優しさに『それが当たり前である様な錯覚』を抱くことを許容するからだ。
でも、辛いことやひどいこと、悲しいことはきっと心の底に澱のように溜まり、消えず流されず、永遠に等しい時間ヒトの内側に残る。
そしてそうした影や闇は時に『ヒト』そのものをを創りあげ、様々に『形作る』。
だから、