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とある日/虫

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幼い頃、以下のような失敗を犯したことがある。
 当時私は小学生だった。自分の苗字くらいしか漢字で書けず、分数を習いたてで、ランドセルもまだ大きく重たく感じていた。秋の初めくらいだったと記憶している。
 通い出した学習塾に向かう途中、私は一羽の揚羽蝶が路傍でもがいているのを見つけた。鮮やかな黄と黒の紋様には既に蟻が集り始めている。ふと、助けたい、と思った。
 私は自転車から降り、蟻を逐一摘まんで放ると、コンクリートに横たわっていた蝶の翅を摘み上げた。その時の私の頭には、学習塾の庭に咲く寒椿の鮮やかな赤色があった。あそこに放してやれば、緑も豊富にあることだし、仲間も居る、蝶は元気になるに違いない。そう思った私は、蝶を右の指に摘まんだまま自転車に跨ると、風を切って学習塾へ急いだ。ただし、蝶が風に振り回されないように細心の注意を払ってゆるやかに自転車を漕いでいった。待っててね、と何度も呼び掛ける私に、指に吊るされた蝶は、ただ困ったように、肢(あし)を動かし続けていた。
 大きな信号に差し掛かって止まり、蝶の様子を確かめた私は、六本の肢がぴくりとも動かぬのを見た。宙を掻いた恰好のまま、虫は停止していた。あら、そんなに人間がこわかったのかしらん、と想像して、それならもう、此処の店の植え込みに放してやろうと、私は蝶を地面に立たせてやろうとした。蝶はぱたりと倒れた。風が吹いて、蝶の体が右から左へ覆った。それきり虫は動かなかった。
 見れば、私の人差し指と親指は多量の鱗粉で白く汚れている。いつか見た祖母の遺灰の白さに似ていた。何か背中の下の方がむずむずして、早くこの場を離れたくなった。店先の煉瓦に指の汚れを擦り付けた。目前の死にそっと手を合わせるふりをして目を背け、自転車に跨ってその場を去った。
 蝶の死骸は夕方には既に消えていた。鱗粉が失われると蝶は死んでしまうと知ったのは、それから三年も後のことだった。

「姉ちゃん」
 部屋で書き物をしていると、妹が戸口からおずおずと声を掛けてきた。何でも、台所に例のあぶらむしが出たらしい。流しに居る、と聞いた私は、なあんだ、と一笑し、三角コーナーの下で息を潜めているあぶらむしを出てこさせるため、何度か流しを叩いた。ぞろりと姿を見せたその黒い背中目掛けて、液体洗剤と水を交互に掛け続けた。逃れようとして壁に縋ったが泡で滑って上手くいかないようだった。素早かったはずの動きは次第に鈍くなり、ステンレスの底を掻くざりざりという耳障りな音も途切れがちになる。黒茶色の背中を覆うひくりひくりと断続的な痙攣。私は文字通りこのあぶらむしの息の根を止めてやりながら、その死んでいく様を直視し続けた。

 あの日も今日も、私という人間は虫のひとくれの命を奪った。その死を物種に、今日も、以上のような一篇を書いてみた次第である。
作品名:とある日/虫 作家名:彩杜