白【サンプル】
手をのばすと子供はびくっと全身を引きつらせた。
「合わせが逆だ。帯の結び方も違う。ちゃんと見て覚えろ」
子供は不思議なものを見る目つきで、白露の手元と顔を交互に見つめた。
「顔を見てどうする、手を見ろ。いいか、こう輪にして、下をくぐらせて」
脅えているくせに逃げなかった。逃げればいっそうひどく打たれることを知っているのだ。
「大きいほうはおまえが食え。宿を探す」
「お荷物持ちます!」
「いらん」
安宿の食事を、子供はまるで王侯の晩餐でも見るような顔つきで見つめたが、手を出したのは小さい果物ひとつだけだった。
「ちゃんと飯を食え」
野菜と魚の汁、木の実入りひき肉団子、豆粥などを盛ってやると、子供は途方に暮れたような顔になった。
「まあまあ、そう怒りなさるな。子供はこういうものは好きじゃないもんです。蜜煮だとか水菓子だとか、甘くて柔らかいものばっかり好きだったでしょう、あなたも」
飲物を運んできた主人がなだめるように言った。
「だけどこういうしっかりしたものも食べないと、いい大人にはなれないんだから。いい子で食べたら、乳にもうひとさじ砂糖を入れてあげよう」
子供は主人と、白露の顔を交互に眺め、こわごわさじを手に取った。
ひと口食べさえすれば、後は心配ない。飢えきった子供は全身胃袋になったようにがつがつとむさぼり食った。皿が空にならぬよう、白露は何度か料理をつぎたしてやった。
「有り難う」
飲物をもらいに立ったついでに、白露は主人に礼を言った。
「まあいい食べっぷりで。よっぽど腹を空かせていたんでしょうな。でもあれでは腹をこわす、そろそろやめさせたほうがいい」
子供を見やる目はやさしい。白露は声をひそめて、尋ねた。
「どこか子供を欲しがっている家か、住み込みの下働きの口でもないだろうか」
「……あの子を? お連れではないので?」
「たまたま連れになっただけだ。身寄りもないというし、いつまでも連れ歩くわけにもいかない」
猿のように売りに出されていたことまで言う必要はない。
「少しあたってみましょう」
「頼む。……ああ、それから茶をくれ、ふたつ。ひとつは乳と砂糖をいれて」
寝台に身を沈めるとどっと疲れがきた。思いがけない買い物のせいだ。そのまますうっと眠りこみ……袖を引かれる感覚に、目が覚めたのは夜中だった。
「……なんだ……用足しくらいひとりで行け……廊下のつきあたり……」
子供は寝椅子で、主人の好意の毛布にくるまって眠っているはずだった。
「腹が痛いのか?」
夕食のばか食いぶりを思いだした。意識の靄が少し晴れた。
体を起こすと、子供は妙にかしこまって床に平伏した。
「おい……」
「月と星と、小夜啼鳥とのお導きに従いまして」
小さな手を胸にあて、頭を上げる。洗いたての黒い髪がさらさらと揺れた。
「今宵、ひと夜のあけるまで、かりそめの縁の糸を結び……」
「やめろ!」
子供は石のように黙りこんだ。
子供が口にしたのは、春を鬻いで命をつなぐ、人に卑しまれるものたちの口上だった。不意に子供が汚れたものに思われた。
「まだ色もついてないような餓鬼を相手にしなきゃならんほど不自由してない。いらん」
声は必要以上にとげとげしく響いた。
「いくら欲しい。金はやるから今すぐ出ていけ」
「旦那様!」
「やめろと言ったろう!」
睨みつけたが子供はひるまなかった。涙をいっぱいにためた目で、まっすぐ白露を見あげた。白くなるほどかみしめた唇が、震えていた。
怒りはすぐに、苦い後悔に塗りこめられた。
こんな子供が生きてゆくのに、きれいごとが通用するほど甘い世の中ではない。「色もついてないような餓鬼」をなぶるのを好むものもいるのだ。そのためにこの子供は、どうにか命をつなぎとめてこられたのだ。
ひとかけらの肉、一杯の汁のために、自分の身を削る。ほかに売るものがないのに、何故それを責められよう……
この子供の、精一杯の感謝の心を、自分は泥足で踏みつけたのだ。
「……悪かった。わかった、来い」
子供は笑った。涙があふれた。
思えばそれが、初めて見た笑顔だった。
約半日の間にこの子供が見せたのは、どこか虚ろな脅えの表情、泣き顔、人の表情を探ろうとする卑屈な上目遣い……そんなものばかりだった。
子供は、借物の夜着の袖でごしごしと涙をぬぐった。
「毛布を持ってこい」
寝台の上で体をずらして場所を空けてやる。子供は毛布を引きずるように寝台によじのぼってきた。ふと触れた手の先は、すっかり冷えきっていた。
「おまえ、名前は」
痩せた肩に手を乗せると、子供はびくりと体を震わせた。それが相手を怒らせたのではないか、ちらりと黒い瞳のはしを脅えの色がかすめた。
「……ありません。おい、とかおまえとか、それで用は済むから……」
諦めるような溜息をひとつ、体の力を抜いて、子供はくにゃりと寄りかかってきた。
浅く息をしてもごまかせない、震えは寒さのせいばかりではない。
「用が済む済まないは別にして。赤様黒様からもらった名前があるだろう」
「……ありません」
子供の声が直接胸に響く。
「赤様は、はっきり誰と判らないそうです。……黒様は、わたしを産んで死にました。初めの養い親が、そう言っていました」
「その養い親というのは」
「黒様の雇い主でした」
悲しい話を避けるように、子供は下紐に指をかけた。白露は手首をおさえてそれを止め、毛布でばさりと子供の冷たい体をくるみこんだ。
「旦那様」
「今度そう呼んだら知らん。……白露だ」
裸足のつま先までしっかり包み、その上から上掛けで覆う。子供は混乱を浮かべた黒い目で白露を見あげた。
「今夜は寒いし、疲れた。眠りたい」
「……それでは、またの夜に。おやすみなさいませ、白露さま」
声には確かに安堵があった。空寝息をたてながら様子を伺っていると、子供もすぐに眠りはじめた。