白【サンプル】
《作品冒頭のサンプルです》
汗じみた通行証を衛士に示し、重厚な石積みの門をくぐり抜けると、白露はほうっと大きな息をついた。
いちどきに胸の中の空気を入れ換えてしまおうとするような、深い息である。
城壁の内と外とでは空気の匂いがまったく異なる。外の空気は乾き、砂と陽の光と植物の匂いに満ちている。弱いものには長くは吸えぬ、厳しい自由の匂いだ。
(ああ)
白露は体の中に染みてゆく、久しぶりの街の匂いに目を細めた。
(街だ。……人の生活の匂いだ)
城壁内の空気には、食べ物の匂い、洗濯屋の石鹸の匂い、酒の匂い、家畜の匂い、花の匂い、女たちの髪油の匂い、……さまざまな匂いが練りこまれ、渦を巻き、ねっとりと白露の嗅覚を麻痺させようとする。幾日もせぬうちにその匂いを鼻持ちならないものに感じはじめるのはわかっているのに、やはり懐かしい、とも思うのだった。
「世話になったね。これは今日までの約束の金。少し色つけておいたよ」
「……有り難う」
前の街から護衛として雇われてついてきた商隊とは、城門前広場で別れた。渡された袋は予想より持ち重りがし、白露はいくらか気分をよくして人中に紛れた。
まずは食事だ。
食べ物のよい匂いにさそわれて入った店は、小さいながらまずまず繁盛している様子だった。見ていると、客は店の奥にどっかりと並んだ大鍋を覗いては、好みのものを取り分けてもらっているらしい。食べ物と引き換えに金を払って、食いながらそのまま表通りに出てゆく者あり、店の卓に空きをみつけて腰を落ちつける者あり。好きなようにやってよいということなのだな、と合点すると、白露は鍋の前に並んだ。
「いらっしゃい、なんにする」
つやつやと磨きあげたように血色のいい女が、威勢よく言った。が、鍋の中で煮えているものや、その後ろの焼き網の上で香ばしい煙をあげているものがなんなのか、白露には見当がつかない。
「お客さん、この辺の者じゃないね」
女は、埃じみた旅装をじろじろと眺めて言った。
「そんならあたしのお薦めをお上がり。よそのお人にも食べやすかろうし、なにしろ安いんだから!」
そう言うともうなにやらこしらえはじめている。穀物の粉を練って薄く焼いたようなものの上に、厚切りにした焼肉をのせ、さらに野菜や木の実を散らして手際よく端から巻いてゆく。
「何を飲む? 乳は搾りたてだし、酒は安くて強いのがあるよ」
女が顎をしゃくる方を見ると、壁をくりぬいた棚にさまざまな瓶や壷がぎっしりと並んでいる。
「あんたの“お薦め”をもらおう」
小さな瓶入りの赤い果実酒は、微かに酸味があって肉の油をいい具合に流してくれる。あてがわれた食物にまずまず満足して、白露は窓際の席に腰を据えた。
荷物は多くはない。最小限の身の回り品を入れた背嚢がひとつと、大切な飯の種の剣一振。上着の隠しにはもらったばかりの金がある。
まずは剣を研ぎ屋に出し、宿をみつけることだ。金が尽きるまでこの街に落ちついてもいいし、勿論いい仕事があればまたすぐ街を出て旅に戻る。
自分ひとりの剣の腕をたよりに、主に、旅人の護衛を請け負って街から街へ旅をする。そういう暮らしが白露は気にいっていた。
窓からは通りに並んだ店や、そこで買い物をする人々の様子が見える。屋台に並べられた果物も野菜も、うまそうにつやつやして見えた。金と品物をやりとりする人々は、表情も声も明るい。
「さあさあ、みなさん見ていきなさいな!」
威勢のいい声に、白露も通りをゆく人も目をひかれた。
「遠い国からはるばると、馬やら船やらラクダやら。苦心惨憺、みなみなさまのご覧にいれんと持ち来たったるこの品々! 見るだけなら只、買ったところでお安いものです、たとえばこちらの……」
けばけばしい衣装の男がもったいらしく取り出したのは、いかにも古色のついた木箱だった。その蓋を開け、中から取り出したのはすばらしく大きな真珠貝の殻だった。
「昔むかし、さる王女様が遠くの国へお輿入れなさったときのこと。豪華な御座船を仕立てて、お嫁入り道具といったら大船にぎっしり二隻分!」
男は声色を使ってしゃべりはじめた。よく通る声は店の中にいる白露まで難なく聞こえる。
「何の因果かそれとも海の妖女のやきもちか、船は沈んで哀れ王女は海の藻屑に……さあそこでこの木箱と貝殻だ」
通りはたちまち人だかりになったが、白露はふふ、と小さく苦笑を浮かべたばかりだった。
行く先々で似たようなものを見てきた。怪しげな品物を、いかにもありそうな因縁話と巧みな弁舌で売りつける、陽気な詐欺師まがいの商人たちだ。すぐに激しく競り合う声がたちはじめたが、白露はもう興味をなくしていた。
うまかった酒をもう一瓶もらい、よい程度に酔いがまわってきたころ、表では大きな笑い声があがった。
「なんだあ、こりゃあ」
わははは、とまた笑い声があがった。人だかりの向こうにちらりと見えた、引き出された“品物”は生き物のようだった。
「言葉はしゃべれるの」
「何か芸をするかな?」
猿かなにかだろうか。
「あら、兄さん何か買うの」
「冷やかしだ」
女はおやおやという顔をした。
「やめときなさいよォ、そんなこと言ってて、気がついたら役にもたたないガラクタ買っちゃってるもんなんだからさ」
女に苦笑で応えて、白露は人だかりに加わった。
引き出されているのは猿などではなかった。ひどく汚れているが、それは人間の子供なのだった。
「えらく貧相だな。出汁も取れねえんじゃないか」
「秤にかけてみろ。穀物ひと袋もないだろ」
観衆は面白がってやんやの喝采を送った。秤と、ぎっしりと中身のつまった穀物袋が運ばれた。
試すまでもない。秤は穀物袋の側へ大きく傾いた。
「こりゃネズミより食うとこ少ないなあ」
「出汁を取るにしたって、そのまえにごしごし洗わなきゃ」
観衆はどっと笑った。子供だけが泣きそうな顔をした。
「買おう」
気づいたときには、自分でも思いがけないことに、白露はそう名乗りをあげてしまっていた。観衆はふっと真顔に戻り、自分たちより頭ひとつ背の高い旅人をふりかえった。
「いくらだ」
「何にお使いになりますので? お腰のものの試し切りにでも?」
もみ手をしそうな商人の隣で、子供は凍りついた。
「買ったものをどうしようがこっちの勝手だ。売るのか、売らないのか」
「う、売ります」
「いくらだ」
さっきまであれほど騒いでいた観衆も黙りこみ、この奇妙な商談に聴き入っている。
「え……ええ、それでは、同じ重さの穀物の値で」
「面倒だ、一袋ぶん出す。よこせ」
白露の手から商人の手へ、ぴかぴか光る硬貨が何枚か移動するのを、子供は唇をかみしめてみつめていた。ぼろきれに包まれた痩せた体が震えているのはわかったが、白露は黙って子供の肩をつかんだ。骨の形がはっきりわかった。
「お客様」
ふりかえると、商人は小さな袋を差し出していた。
「お釣りでございます。わたくしどもも商売人の端くれ、必要以上のお代を頂戴するわけには参りません」
袋はさらさらと音を立てていた。子供の体重を差し引いた分の穀物が入っているのだろう。白露はやはり黙って受け取った。
「あまりむごいことをなさいませんよう……」
汗じみた通行証を衛士に示し、重厚な石積みの門をくぐり抜けると、白露はほうっと大きな息をついた。
いちどきに胸の中の空気を入れ換えてしまおうとするような、深い息である。
城壁の内と外とでは空気の匂いがまったく異なる。外の空気は乾き、砂と陽の光と植物の匂いに満ちている。弱いものには長くは吸えぬ、厳しい自由の匂いだ。
(ああ)
白露は体の中に染みてゆく、久しぶりの街の匂いに目を細めた。
(街だ。……人の生活の匂いだ)
城壁内の空気には、食べ物の匂い、洗濯屋の石鹸の匂い、酒の匂い、家畜の匂い、花の匂い、女たちの髪油の匂い、……さまざまな匂いが練りこまれ、渦を巻き、ねっとりと白露の嗅覚を麻痺させようとする。幾日もせぬうちにその匂いを鼻持ちならないものに感じはじめるのはわかっているのに、やはり懐かしい、とも思うのだった。
「世話になったね。これは今日までの約束の金。少し色つけておいたよ」
「……有り難う」
前の街から護衛として雇われてついてきた商隊とは、城門前広場で別れた。渡された袋は予想より持ち重りがし、白露はいくらか気分をよくして人中に紛れた。
まずは食事だ。
食べ物のよい匂いにさそわれて入った店は、小さいながらまずまず繁盛している様子だった。見ていると、客は店の奥にどっかりと並んだ大鍋を覗いては、好みのものを取り分けてもらっているらしい。食べ物と引き換えに金を払って、食いながらそのまま表通りに出てゆく者あり、店の卓に空きをみつけて腰を落ちつける者あり。好きなようにやってよいということなのだな、と合点すると、白露は鍋の前に並んだ。
「いらっしゃい、なんにする」
つやつやと磨きあげたように血色のいい女が、威勢よく言った。が、鍋の中で煮えているものや、その後ろの焼き網の上で香ばしい煙をあげているものがなんなのか、白露には見当がつかない。
「お客さん、この辺の者じゃないね」
女は、埃じみた旅装をじろじろと眺めて言った。
「そんならあたしのお薦めをお上がり。よそのお人にも食べやすかろうし、なにしろ安いんだから!」
そう言うともうなにやらこしらえはじめている。穀物の粉を練って薄く焼いたようなものの上に、厚切りにした焼肉をのせ、さらに野菜や木の実を散らして手際よく端から巻いてゆく。
「何を飲む? 乳は搾りたてだし、酒は安くて強いのがあるよ」
女が顎をしゃくる方を見ると、壁をくりぬいた棚にさまざまな瓶や壷がぎっしりと並んでいる。
「あんたの“お薦め”をもらおう」
小さな瓶入りの赤い果実酒は、微かに酸味があって肉の油をいい具合に流してくれる。あてがわれた食物にまずまず満足して、白露は窓際の席に腰を据えた。
荷物は多くはない。最小限の身の回り品を入れた背嚢がひとつと、大切な飯の種の剣一振。上着の隠しにはもらったばかりの金がある。
まずは剣を研ぎ屋に出し、宿をみつけることだ。金が尽きるまでこの街に落ちついてもいいし、勿論いい仕事があればまたすぐ街を出て旅に戻る。
自分ひとりの剣の腕をたよりに、主に、旅人の護衛を請け負って街から街へ旅をする。そういう暮らしが白露は気にいっていた。
窓からは通りに並んだ店や、そこで買い物をする人々の様子が見える。屋台に並べられた果物も野菜も、うまそうにつやつやして見えた。金と品物をやりとりする人々は、表情も声も明るい。
「さあさあ、みなさん見ていきなさいな!」
威勢のいい声に、白露も通りをゆく人も目をひかれた。
「遠い国からはるばると、馬やら船やらラクダやら。苦心惨憺、みなみなさまのご覧にいれんと持ち来たったるこの品々! 見るだけなら只、買ったところでお安いものです、たとえばこちらの……」
けばけばしい衣装の男がもったいらしく取り出したのは、いかにも古色のついた木箱だった。その蓋を開け、中から取り出したのはすばらしく大きな真珠貝の殻だった。
「昔むかし、さる王女様が遠くの国へお輿入れなさったときのこと。豪華な御座船を仕立てて、お嫁入り道具といったら大船にぎっしり二隻分!」
男は声色を使ってしゃべりはじめた。よく通る声は店の中にいる白露まで難なく聞こえる。
「何の因果かそれとも海の妖女のやきもちか、船は沈んで哀れ王女は海の藻屑に……さあそこでこの木箱と貝殻だ」
通りはたちまち人だかりになったが、白露はふふ、と小さく苦笑を浮かべたばかりだった。
行く先々で似たようなものを見てきた。怪しげな品物を、いかにもありそうな因縁話と巧みな弁舌で売りつける、陽気な詐欺師まがいの商人たちだ。すぐに激しく競り合う声がたちはじめたが、白露はもう興味をなくしていた。
うまかった酒をもう一瓶もらい、よい程度に酔いがまわってきたころ、表では大きな笑い声があがった。
「なんだあ、こりゃあ」
わははは、とまた笑い声があがった。人だかりの向こうにちらりと見えた、引き出された“品物”は生き物のようだった。
「言葉はしゃべれるの」
「何か芸をするかな?」
猿かなにかだろうか。
「あら、兄さん何か買うの」
「冷やかしだ」
女はおやおやという顔をした。
「やめときなさいよォ、そんなこと言ってて、気がついたら役にもたたないガラクタ買っちゃってるもんなんだからさ」
女に苦笑で応えて、白露は人だかりに加わった。
引き出されているのは猿などではなかった。ひどく汚れているが、それは人間の子供なのだった。
「えらく貧相だな。出汁も取れねえんじゃないか」
「秤にかけてみろ。穀物ひと袋もないだろ」
観衆は面白がってやんやの喝采を送った。秤と、ぎっしりと中身のつまった穀物袋が運ばれた。
試すまでもない。秤は穀物袋の側へ大きく傾いた。
「こりゃネズミより食うとこ少ないなあ」
「出汁を取るにしたって、そのまえにごしごし洗わなきゃ」
観衆はどっと笑った。子供だけが泣きそうな顔をした。
「買おう」
気づいたときには、自分でも思いがけないことに、白露はそう名乗りをあげてしまっていた。観衆はふっと真顔に戻り、自分たちより頭ひとつ背の高い旅人をふりかえった。
「いくらだ」
「何にお使いになりますので? お腰のものの試し切りにでも?」
もみ手をしそうな商人の隣で、子供は凍りついた。
「買ったものをどうしようがこっちの勝手だ。売るのか、売らないのか」
「う、売ります」
「いくらだ」
さっきまであれほど騒いでいた観衆も黙りこみ、この奇妙な商談に聴き入っている。
「え……ええ、それでは、同じ重さの穀物の値で」
「面倒だ、一袋ぶん出す。よこせ」
白露の手から商人の手へ、ぴかぴか光る硬貨が何枚か移動するのを、子供は唇をかみしめてみつめていた。ぼろきれに包まれた痩せた体が震えているのはわかったが、白露は黙って子供の肩をつかんだ。骨の形がはっきりわかった。
「お客様」
ふりかえると、商人は小さな袋を差し出していた。
「お釣りでございます。わたくしどもも商売人の端くれ、必要以上のお代を頂戴するわけには参りません」
袋はさらさらと音を立てていた。子供の体重を差し引いた分の穀物が入っているのだろう。白露はやはり黙って受け取った。
「あまりむごいことをなさいませんよう……」