林檎の丘
以前はもっとずっと、それは眩しかった。同じように葉の隙間から空を仰ぎ見ても、眩しさに目を開けることができないほどに。それもそのはず。あの頃はまだ赤く実るはずの果実は青く、そして小さかった。太陽はそれらを大きな赤い実にするために、力強く輝いていた。
熱い夏の日。私がこの木の下で出会ったのはそんな日の事だった。果樹園を一望できる高台の小さなカフェで、アルバイトをしていた私。そこにやってきたのが、あいつだった。
初めてやってきたのは、その夏でも一番暑い日だったように思う。林檎の花もとっくに散った暑い夏になんて、たいしたお客もこない中、一人あいつはやってきて、丘の斜面に立ち並ぶ木々に見入っていた。
あいつは天真爛漫で無邪気。そういえば聞こえはいいけれど、言ってしまえば子供っぽい。そんな人間だった。この街では珍しくもない林檎の木を見上げては、大げさに喜んで見せる。しまいには店の方がクーラーが効いて涼しいはずなのに、木の下の方が自然の風が吹いてきて涼しいなんて言い張って、そこに居座り始め、店にきても注文した物をわざわざ木の下まで持ってきて、だなんて無茶なことを言い出す。
けれどそんなあいつをマスターまで面白がって気に入ってしまって、いつの間にか、あいつはそのひと夏をそこで過ごすようになって、私は、ひと夏あいつに振り回されていた。
正直に言うなら、私はあいつのことが嫌いだった。あいつが店に来るたびに、ああ、また来た。と、嫌な思いもした。林檎の木の下で何故かいつも辞書とにらめっこをしながら百面相をしていて、ヘンな奴、としか思えなかった。けれどでも、今はそれも後悔にしかならない。
私は手にした辞書を開く。それはあいつの忘れ物。そのとあるページに、一枚の写真を挟んである。マスターに記念だからと、例の木の下で無理やり写真を撮らされたときの写真。馴れ馴れしく肩を組んで笑うあいつと、困ったよう にぎこちない顔で笑う私。それもいつの間にか煩わしくも、当たり前のように感じるようになっっていった。
でもある日。実はそれがとても脆い繋がりでしかないことを、私は思い知ったのだ。
それはとても理不尽なお客がやって来た日だった。態度も横柄で、マナーも何もなくて、とんでもない要求をして、それができないとわかると、応対に出た私が悪いのだと、酷い言葉を投げかけて、去って行った。
マスターは何も悪くないって慰めてくれたけど、本当は気付いていた。あいつのことで少しばかりイライラしていた私は、そのお客さんにまで、イライラを隠すことができていなかったのだと思う。それを見透かされた。だからそうなった。
けれど私は、自分が悪いのだと言うことを、認めることができなかったんだろうと思う。私は悪くないというマスターの言葉を真に受けて、私は全てをあいつのせいにした。あいつさえいなければこんな風に苛立って、あんなお客さんに酷いことを言われることもなかったのに。
あいつはそんな私の心境を、きっと気付いてはいなかったんだろう。いつものようにへらへらと、軽い口調で私に言った。
「なんだよあんなことくらい。気にすんなって」
その時ほど、あいつを憎らしく思ったことはなかったと思う。たった一つのその言葉が、それまでの私の鬱積を爆発させてしまった。
誰のせいだと思っているの。あんたのせいじゃない。あんたがこんなところにいるから。あんたがここで好き勝手なことをしているから、こんなにイライラするのよ。
「消えてよ! 今すぐ私の前から消えて!」
その言葉を言い放った時、私はあいつの顔を見てはいなかった。どうせいつものようにしまりのない顔で笑っているに決まっているって思っていた。でも、その後の言葉を聞いた時、それが間違いだったって、気付いた。
震える声で、あいつは言った。
「ごめん」
って。
次の日から、しばらく雨が続いた。あいつはこなかった。でもどうせ、雨が止んだらあいつはまたここに来るんだろうって思っていた。またいつものように変わらない軽い調子で、いつものように林檎の木の下に居座るんだろうって。
なのに、しばらくして雨がやんでも、あいつはこなかった。そのうちに夏休みが終わって、赤い大きな甘酸っぱい実がたわわに丘の斜面を埋め尽くす頃になっても、あいつはこなかった。それ以来もう、私はあいつの姿を見ることはなかった。
連絡を取ろうとも思ったのに、私はあいつが嫌いだったから、ケータイ番号すら教えてもらってはいなかった。なんてことをしたんだろうと、気付いたところで何もかも、遅かった。
行方知れずのあいつを探すこともできないうちに、私は高校の卒業を迎えようとしている。あいつと過ごしたひと夏の面影は、もうどこにもない。ただ、あいつが木の下でいつもしかめっ面で向き合っていた英語の辞書と、あの一枚の写真だけが残っている。
大きな赤い甘酸っぱい実をつけた林檎はもう、ほとんどもぎ取られてしまった。残っているのは、形のいびつな不揃いの林檎だけ。
その木の下で私はその辞書と写真を見つめる。辞書のとある単語には、ピンクの蛍光ペンでラインが引いてある。 その単語を隠す写真を手に取る。その言葉は『love』。そして写真の裏をめくると、同じ色のペンで同じ単語が書かれていた。
太陽に透かすと、それはちょうど、私とあいつの真ん中。
何を考えていたのあいつは。恋人でも気取ってたつもり?
でもその言葉と写真の意味を、私はもう忘れることなんてできない。
最後に残ったいびつな林檎をもぎ取る。もう、燦々と輝いた太陽も、真っ赤な丸い林檎もない。
あいつの言葉を思い出す。早く林檎が生らないかと待ちわびていたあいつ。生ったらどうするのかと聞いたらあいつはこう言っていた。
「お前と俺で半分こして食う!」
ねえ今どこにいるの? どこに消えてしまったの? 半分なんて言わないで、全部あげたのに。いくらだって、あげたのに。食べる相手もいない林檎はただ腐っていくだけ。
甘酸っぱさもなくなってぱさぱさした乾いた林檎。かじると、その上に滴が落ちて、しょっぱさがしみ込んだ。