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漕ぎ出した舟

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『漕ぎ出した舟』

一流大学と言われたX大学の法学部の期待の星といわれた野本明宏が大学を去ってから十年が経つ。もう五十を超えている。大学を辞め故郷の山口に戻り、病気の療養しながらのんびりと余生を過ごしている。
長い冬の終わろうとする三月のことである。後輩である田中義仲が野本を訪ねた。たまたま近くで学会があり、その合間を縫って訪ねたのである。
田中は野本の強力なバックアップで助手になり、今は野本の跡を継いだ恰好で助教授になった。その報告も兼ねて訪問したのである。

田中は野本と対面した。
かつての精悍とした顔の面影が今はどこにもないのに、田中は驚きを禁じえなかった。髪は白く、手は干からびて、顔は皺だらけ、体は骸骨のようであったのである。
大学の状況や学界の報告をした。野本は黙ってうなずいて聞いていたが、しばらくすると、「ありがたいが、もういいよ、もう大学にも学界にも戻ることはない。それに興味もない」と寂しく笑った。
かつての野本はブルといわれ常に精力が満ち溢れていた。議論は理路整然として、それでいて決して己の知性を光らすことはなかった。心憎いまでに出来る男として評価された。酒好きであったが、どんなに酒を飲んでも決して乱れるような、みっともない真似はなかった。女にはもてたが、決して浮名を流すこともなかった。そんな彼が突然病を理由に大学を辞めた。野本の痩せた体を見ながら、田中はそれほど病がひどかったのかと考えた。
「ここはね、海が見える。だから、戻ってきた」
「海ですか?」
海の記憶は田中にもあった。広い海、浜辺の夏。ひたすら流れ出る汗。ただ青く光輝いている海。足裏が焦げるくらい暑かった。過ぎ去った少年時代の記憶である。それと同時に貧しかったことも思い出された。それは苦い記憶である。
田中はちょっと顔を背けた。
「海だよ、子供の頃を思い出してね。よく海で遊んだものだった、だが、それも夢のようだ」
野本の妻である洋子夫人が茶をいれた。かつては大学の華ともいわれた。野本が先妻と離婚した一年後に結婚したのである。彼女は当時まだ大学院生だった。先妻はその後、自殺した。野本に捨てられた失意とも言われた。
田中は洋子夫人をそっと眺めた。まるで、まだ四十前というのに、枯れた華のようである。髪は隠せないほど白髪が混じっている。顔の皺も多い。眼には疲れの色がある。しかし、顔はよく見ると、かつての美しい輪郭があって、ある意味で残酷な形で美が残っていたのである。僅か十年である。人はこうも変わるのであろうかと、田中は驚いた。
「レイカちゃんはどうしました?」
田中は言った後でしまった思った。野本夫妻の顔色が微妙に変化したからである。レイカは前妻との間の子で、もう十九歳になっている。
「元気で暮らしているさ」と野本はまるで他人事のような言い方で答えた。
「あなた……」と夫人は夫に話し掛けた。すると野本は「黙っていなさい」と制したが、夫人の顔は毅然として怯む様子はない。
「いいえ、レイカさんのことで、田中さんにお願いしたいことがあるの」
じっと訴えるような眼差しで田中を見る。田中は無視することはできなかった。かつて田中も夫人に惚れたことがある。しかし、自分の恩師である野本と恋仲であることを知って、ついに気持ちを告白することができなかった。そのことは夫人も気づいていたはずだ。
「できることなら……レイカさんはどんな暮らしているのか、お金に困っていなのか、どんなことでもいいから見てきて、教えてほしいのです。私たちには、会ってくれませんから。……レイカさんは、田中さんに懐いていたから、お願いしたいのです」
学生の頃、貧しかった田中はよく野本の家に行き食事をごちそうになった。長い髪をした九歳の愛くるしい少女の時の記憶がある。大きな瞳、いつもはにかんだような笑み、それらが鮮やかに蘇った。利発そうな顔立ちをして、何かあると、その混じりけのない大きな瞳でじっと見るのが癖であった。確かにレイカはとても田中に懐いていて、「いつかお嫁さんにしてよ」とよく言っていた。

春になった。
桜が咲こうかという頃、田中はレイカを訪ねた。彼女は練馬区の中心部から少し外れた小奇麗なマンションに暮らしていた。近くには公園があり、公園の桜が咲いている。春風に乗って淡い色の花びらが、三階の彼女の部屋まで届く。
田中のインターフォンを押す手が心持ち震えた。五度押したが応答がなかった。諦めて帰ろうとした時、応答があった。
「田中です。田中義仲です。小さい頃、一緒に遊んだ田中義仲です。覚えていますか?」と言うと、
「名前は覚えています。どうぞ」と言うと、オートロックのドアが開いた。
部屋のチャイムを鳴らすと、顔の白いパーマをかけた若い女が現れた。田中が知っている少女の顔から五年後の顔を符合させるに少し時間を要した。
「田中だよ。ちょっと変わったからな」
彼女の方もようやく思い出したようだ。顔が少し和やかになった。
「邪魔かな?」
大きく瞳を開いて田中の顔を見た。
「少しなら、いいよ」
部屋に上がると、レイカが上に大きなパジャマを羽織っているだけであることに気づいた。下は下着だけ、それに少しのぞける。田中は眼のやり場に困った。
「今、着替えようと思っていたの。上がってよ、今、コーヒーを入れるから」
六畳くらいのリビングルームに通した。少し乱雑であった。慌てる様子もなく、床に落ちている色っぽい下着らしきものを拾った。中央には鏡張りのテーブルがあった。壁には日本画のリトグラフが掛けられていた。
レイカは田中に椅子に座るように勧めて、隣の部屋に消えた。田中は壁の絵を眺めた。桜の絵である。絵一面には桜の花びらが描かれている。描いた時間が夜なのであろうか、桜の背後にある微かな空間が黒ずんだ紫色に染まっている。
「趣味が良いでしょう」と背後から小さな声がしたので振り向くと、着替えを終えたレイカが立っていた。
「カーテンを開けないのかい?」
「暗いところが好きなの」
「本当に?」
「嘘よ、本当は隣のマンションに住む男がときどきこっちを覗き、それで視線があったりする。それが厭だから、カーテンを閉め切っておいているの」
レイカはコーヒーを湧かすと言って、キッチンに行った。田中は時計をみた。部屋の中の匂いを嗅ぐと、微かに若い女の特有の甘酸っぱい匂いがした。
戻ってきたレイカはカップとコーヒーポットを持ってきて隣に座った。コーヒーをカップに注いだ。
「どうぞ」と言った。
「ところで、今、何をやっている?」
レイカは何も答えない。
コーヒーの匂いが部屋を満たした。
「質問は私の方が先よ」とコーヒーを入れながら言った。
レイカは「何のために来たの?」と尋ねた。田中は野中夫人に頼まれたと正直に答えた。
「あいつは嫌いだ!」
その怒った顔は、田中が予期せぬものだったので、思わずコーヒーカップを落としそうになった。それに気づいたレイカは怒った顔を隠した。
田中は言葉に窮した。また時計を見た。
「何も聞かないの?」
レイカは試すような顔をした。どうも勝手が違うぞ。まるで尋問を受けているみたいだと田中は思った。
「田中さんは変わっていないね」
「どんなところが?」
作品名:漕ぎ出した舟 作家名:楡井英夫