逃亡
インドは混沌とした世界だ。善も悪もひとつになって存在する不思議な世界だ。
南部にある貧しい村。
幼少のとき、ステラは養父母に引き取られた。それは生まれたときから決まっていた運命だった。思春期になる前に性行為で男を喜ばせる方法を教わった。養父母は彼女を高く売ることを夢見て幾分かの優しさを交えて育てた。
十四歳のある日、独りの男がステラの前に現れた。売られたのである。車に乗せられ何時間もかけて大都市Mにやってきた。M市の歓楽街の一角にある売春宿群に一角にある汚いビルの中にステラを買った売春宿の店があった。
歓楽街には、インド人をはじめ中国人、アラブ人、とさまざまな人種が女を求めて夜な夜な集まる。
売春宿の主人はステラに言って聞かせた。
「言うことを聞けば、ちゃんと食事をやる。そして安らかに眠れるベッドもやろう」
彼女の教育係は年老いた売春婦。客の喜ばせ方や接し方を毎日教えた。教育係は気まぐれで癇癪持ちで、気に食わないことがあると直ぐに殴った。客を取るまで間、雑用の仕事をさせられた。合間に小さな窓からいつもステラは外を見る。路地裏の壁しか見えないのに、その壁の向こう側にある空を夢見ていた。
十六歳になったとき初めて客を取らされた。
自由はない。客も選べない。臭い匂いがしても、醜い顔をしても、金さえ払えば、ステラを抱くことができた。“嫌だ”というと容赦なくぶたれた。ぶたれたときは食事も与えられなかった。そのうえ暗い部屋に閉じ込められた。しばらく、最低限死なない程度で生かされる。やがて、ただ食事をして安らかに眠ることだけでどんなに幸せかを悟せるのだ。
ステラはいろんな男に抱かれたが、心は年齢に相応しい幼さがあった。叶わぬ夢があった。それは、ここから救い出してくれる素敵な男が現れるということ。
一人の若者が現れた。
ダンディで羽振りの良い若者だった。ステラに惚れたふりをする。ステラは本気になってしまった。
ステラが言った。「ここから出たい。青い空が見たい」と。
若者はうなずいた。
「逃がしてやるよ」
「あてはあるの? どこ?」
若者は自信たっぷりに言った。
「遠くさ。俺の生まれたところだ。ここからずっと、ずっと遠くにある。船で行くところだ。だが、そのために、この店の金を持ってこい。見つかりそうになったらためらわず主人を殺せ、明け方には、店に主人がいない。そのときがその時がチャンスだ。用心棒も売春婦も、みなブタのように寝入っている」ステラは若者が言ったように金庫室から金を奪った。奪った金は、店の外で待っていた若者に渡した。
「先に港で待っていろ。俺は用を済ませてから行く」と若者は消えた。
港に着いたステラ若者男を待っていた。けれど、来たのは追手だった。ステラが逃げたことを知り、売春宿主は烈火のごとく怒り、追手を差し向けたのである。
捕まった時、売春宿の主人が最初に「どうして、逃げようと思った?」と聞いた。
「壁に囲まれていた部屋から青い空が見えなかったから」
「金をどうした?」と執拗にステラを責めた。
厳しい責めにステラは思わず若者のことを告白した。
大金を手にした若者は愛人とともに逃亡した。大都会を出て、密林に入った。雨が降ってきた。ちょうど、雨季に入ったばかりだ。熱帯の雨季は日本の梅雨とはスケールが違う。青臭い密林の中を雨が激しく降る。晴れたときには聞こえた鳥や獣の鳴き声はいつしか聞こえなくなり、降る雨だけが耳のなかをこだまする。
何日かたって、愛人は弱音を吐いた。
「もう逃げられない。帰ろう」と愛人は泣きそうな顔で言った。
「もう戻れない」と若者は首を振った。
今ここで町に帰れば、殺されるようなものだと知っていたから。追っ手は執拗に追い掛けた。昼夜を問わず逃げた。そして数百人足らずの名もない集落まできた。が、それでも追及の手は緩めない。愛人は半ば発狂しそうになっている。森の奥地まで彼らは追い掛けて来る。果てし無く続く陸の海、緑の密林、海のような河を越えた。彼ら大きな樹の洞で雨宿りした。若者は軽い眠りを襲われ、愛人の膝の上で眠った。
夢を見た。数え切れない貧しい人々。夜毎に街の明かりに集まる少女たち。怪しげな獣の鳴き声がときおり聞こえる。愛人が空を見上げて「月がきれい」と言ったとき、その時、追手が現れた。
数日が過ぎた後、杖をついた若者がステラの前に現れた。そのうえ、まるで別人みたいに顔が変形していた。
売春宿の主人がステラに「こいつは、金を盗んだ。その罰で片足を失った。そして、死ぬまでこの店で働かなければならない。お前はこんなチンピラにだまされた。もう二度とつまらぬ戯言に耳を傾けるな」と言った。