幻燈館殺人事件 中篇
* 2 *
花明は、帝国大学の助教授である。
助教授は、教授からの要請があった場合、自身の研究より教授の補佐を優先せねばならない。特に、花明の上司である澤元は、無類の実地調査好きとして知られている。現地で得られた情報を基に論文を作成する作業は、専ら助教授以下の者たちに委ねられる。
六年前、澤元が花明を九利壬津村に同行させたのも、調査の手伝い以上に、現地に触れておいた方が論文をまとめやすいであろうという考えによるものであった。実際には、澤元はギックリ腰で九利壬津村に赴けず、花明を現地に触れさせるという目的だけが達成されることとなった。
花明はそのような背景の下で、幻燈館の事件に巻き込まれたのだ。
事件後、九条家から大学に多額の寄付が寄せられたことで、澤元が進めていた九利壬津村での研究は凍結を余儀なくされた。
花明は責任を感じ、一時は大学を辞めようとまで考えていたが、澤元は、研究対象は一つだけではないのだよ、と決して花明を責めることはしなかった。
そして花明は助教授になる。
民俗学の分野においては、二十代半ばという若さで助教授になるのは稀有なことであるが、澤元が自身の研究を事実上破棄する形で凍結する条件として、花明の助教授就任を大学側に要求しており、九条家からの寄付の件もあって、就任の最低条件が満たされるのを待って任命が行われることになった。
澤元の要求は、別段無理難題ではなかった。花明自身の能力は申し分なく、この件がなくとも時期が来れば助教授に就任していたであろう、という見解が、これらの交渉を迅速に進めた決め手であった。
ただし、早過ぎる助教授就任は、花明の敵を増やしてしまった。
煎れたての茶を一啜りして、ほぅ、と一息。
花明は、自分の机に広げられている数枚の便箋に視線を落とした。そうして、この三日の間に何度となく読み返したその内容を、もう一度脳裏に廻らせる。
室内は、窓から見える野外よりも寒いように感じられた。それは、自分以外に誰もいないからなのか、便箋に書かれていた内容に寒気を覚えたからなのか。
意味を成さない自問は、湯呑みの煎茶とともに、心が落ち着くまでの間を取り持つことに貢献する。
「卑怯ですよ、桜子さん」
花明が三日掛けてようやく搾り出すことができた言葉だ。
便箋をまとめて拾い上げた花明は、そこに書かれた文字列に再び視線を預けた。
『つい先日、町の往来でインバネスを羽織った殿方をお見掛けし、花明さまのお姿を思い起こしました。あれからもう六年。年月の流れとは早いものでございますね。
実は今、私のお腹に子がおります。花明さまもご存知のあの方との子でございます。赦されぬ罪を犯した私が母になってよいものかと悩むその最中に、今度は美星堂で本物の花明さまをお見掛けし、何かの啓示ではないかと思った次第でございます。
勝手ながら、六年前のことをしたためたこの文を花明さまにお届けし、懺悔したく思います。咎人の戯言でございますが、ご容赦願います。
六年前のあの夜、私は代美さまのお部屋へ行き、眠っている代美さまの心臓を一突きに致しました。使用人として館に入った私は、代美さまと蝶子さまの入れ替わりを知り、お二人の入れ替わりが行われる日であれば、朝方まで代美さまが生きていると錯覚させることができることに思い至ったのです。確実に眠っていただくため、会食を終えお部屋にお戻りになる代美さまに、睡眠薬入りのお水をお渡しました。入れ替わりの合図となる白ワインにも睡眠薬を混入してありましたが、本数が多くすべてのボトルに仕込むことはできなかったのです。夜になれば、使用人たちが眠る別館との連絡通路に本館側から施錠します。鍵を預かる村上さんが施錠している隙に、代美さまのお部屋に向かったのです。新人であった私が鍵を預かることはないのは分かっていましたし、村上さんが灯り番で早起きしなければならない私を先に休ませてくださることも分かっていました。
別館との連絡通路は本館の隅にあり、当直室からであれば、代美さまのお部屋の方が断然近いのです。代美さまはよく眠っておられました。』
扉を叩く音に顔を上げた花明は、反射的に時計に目をやって現在時刻を確認した。
「いけない。もうこんな時間だ」
花明が言葉を発すると、扉を叩く音が止まった。
誰に聞かせるというわけでもなく、現状を自覚するためだけに発せられた言葉であり、部屋の外まで届いたはずはないのだが、と気付くのと同時に、今日の勉強会が中止になっていたことに思い至る。
それは、勉強会の参加者が花明を呼びに来たのではないことを示す。
「います! いますよ!」
花明は慌てて声を張る。
若くして助教授となった花明への風当たりは強い。部屋を訪ねてきた者への対応が拙いと、後日ねちねちと嫌味を言われることになる。
自分が言われるのは仕方がない。けれど、澤元教授にまで影響が及んでしまうことは、可能な限り避けたい。花明はそう考えている。
「押忍! 文学部二年、高田文平であります! 入室しても宜しいでしょうか!」
大きな、大きな声が、扉越しに聞こえる。声の主が体育会系の人物であることは、間に扉を挟んでいても容易に察しがつく。
花明は、高田へ入室許可を出す前に、便箋を封筒に入れ、引き出しに放り込んで鍵を閉めた。
「どうぞ」
高田は、扉を開けるなり直立不動の体勢をとり、声を張り上げた。
「押忍! 失礼します! 花明先生宛ての手紙を預かって参りました! 押忍!」
高田は、扉の枠に額が隠れてしまうほどの身長がある。面長であり、目がくぼんでいて、顎が四角い。帝国大学の制服である黒の学ランがよく似合っている。
「手紙ですか?」
大声に顔をしかめながら問い返す花明の視線は、先ほど放り込んだ引き出し内の便箋に向かっていた。
「押忍! 正門付近をうろついていた不審な男に声を掛けたところ、花明先生に渡して欲しいと頼まれたのであります! 押忍!」
「不審な男? とにかく中へ。それと、もう少し静かに話してもらえますか?」
「押忍! 失礼しました!」
「……もういいです。手紙をください」
高田から手紙が入った封筒を受け取った花明は、その場で開こうとして、もしも恋文であったりしたら――、という常盤の言葉を思い出した。
「まさか、ね」
そう言いながら、花明は封筒から便箋を抜き取った。そして、その最初の一文を読み、言葉を失った。
便箋には、こう書かれていた。
『すぐに会いたい』
*
帝都の中心から北に外れると、町の景観とともに道行く人々の様相が変化する。
木製二階建ての家屋が建ち並んでいるが、中心部ほどの密集は見られない。かといって山間部にある集落ほどの間隔もなく、小さいながらもそれぞれの家に庭があり、物干竿にはさまざまな衣類が揺れている。
半分以下にまで狭くなった道には、和服姿の老若男女を散見するようになり、時折、少年少女たちが無邪気な笑い声を残して追い抜いてゆく。
十年以上も昔の世界に迷い込んだ気持ちになり、心がほんのりと温まる。
そんな情景の中に身を置きながらも、花明は決して歩を緩めることなく早足で歩き続けていた。
作品名:幻燈館殺人事件 中篇 作家名:村崎右近