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十一月二十七日

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通院の帰り道、川沿いの長い坂がある。十二月目前ということもあって風は冷たかったが、日向は暖かかった。普段引きこもりがちなので、たまには日光浴がしたくなった。自転車から降りて暫くぶらぶら歩くことにした。
 朝日を享(う)けて川は琥珀色にきらめいている。目下の川では緑の藻が長い髪の毛のように川面を覆い、その中を丸々と肥った黒金色のコイやフナが泳いで行く。ススキに紛れてぶちの猫が伸びをした。それを見ていた親子が顔を見合わせて微笑み、子供がその猫にもみじのような右手をひらひら振った。銀色の光はその子の洟垂れも優しく照らしている。
 冬も間近だというのに、春先のようにのどかだった。景色は微かに霞んでいた。その霞み方も美しかった。目に見えるものすべてがきらきらしていた。私の服に付いた糸くずまでもが日向の中では希少な銀細工のように光っているので、自分もそうした眩しい景色の一員のように思えて、大変愉快だった。全身が軽く、誇らしいような気ですっすと進めた。坂を下った所にある焼き鳥屋の香ばしい匂いなどもあって、私は呑気に、今日の昼飯のことなども考え始めていた。
 橋を渡って、左へ折れた。土手には、団地が連なった長い影が落ちている。
 そうして日陰に差し掛かった時、私は立ち竦み、その先歩いていくのを躊躇った。まず道が悪い。舗装されておらずあちこちでこぼこで、枯色混じりの緑がほしいまま蔓延っている。足跡(そくせき)はあったがほぼ埋もれかけていた。時折タンポポが黄色い花を咲かせているが、日陰の中でうなだれているからむしろ寒々しく映る。
 一挙に世界は暗くなった。親子はいつのまにか何処かへ行ってしまい、線香のにおいが団地の一室から漂ってくる。蝶の羽の残骸が、風に飛ばされないまま、地面に横たわっている。何と陰鬱な光景か! 対岸の日向に対し、日陰を歩く者は一人も居ない。風が急に冷たく吹き出した。突然氷を宛がわれた時のように肌が粟立ち、縮み上がる。薄着を反省した。そもそもいつもは通らないこの道を選んだことを後悔した。道を変えようかと思った。しかし、橋を引き返すのは手間だったし、このまま真っ直ぐ進んだ方が早かろうと、私は自転車に跨った。
 おんぼろ自転車はガタゴト歌う。前籠の螺旋が馬鹿になっているのだ。
 全身に被さった暗がりの外套は私の体温を確実に奪っていく。身体の芯から震え、指先が痺れるように痛んだ。早く抜けなければと思うのだが、道が悪くて思うように前に進まない。川面は、獲物を付け狙うぎらぎら光る無数の猫の眼だった。吹き荒ぶ風音は皆私を噂する悪意の群衆だった。
 私はこわくて泣き出したくなった。母を呼びながら、妹の名を呼びながら、必死に自転車を漕いだ。帰るために、懸命に前に進もうとした。しかし、ある時その意志までもが凍り付いた。転落するように自転車を降り、立ち尽くしてしまう。
 私は、どこへ帰ろうとしているのだろう? ……無論、自宅である。何故、帰ろうとしているのだろう? ……そこが、帰っていくべき場所だからである。何故、帰っていくべきなのだろう? ……心配されるからかもしれない。自問自答しながら、私は次第にわからなくなってくる。
 家族の風景……じゃれついて私を起こす妹の小さな手のひら。私に診察料を与え、病院へ送り出した母の背中。食卓に無関心に広げられた新聞紙、家中にしみついた煙草の臭い……彼らは果たして、心底から私を歓迎してくれているのだろうか。
 私は〈病気〉がひどくなると暴言を吐いて彼らを罵倒し、しばしば彼らを撲(なぐ)った。そのくせ、私はあらゆることを恐れた。世間の前に立たされると、相手と喧嘩をする前から敗走のために後ずさる惨めな犬のように、あらゆることから逃げ出してきた。
 けれども、近頃は他人の手を借りて、私は喧嘩の現場へと戻るようになった。勝ったのか負けたのか判らない勝負でも、全てが片付いた後に握手のできる相手が現れ始めた。それは確かに私の成果であった。
 私はその成果からも逃げ出してしまった。……私は、もう生きていくことが怖いのだ。

 日陰を脱し、晴れた道に出た。しかし、その頃には〈病気〉は深々と私を侵しており、一時は心を弾ませた陽気はすっかりなりを潜めてしまった。ふと、思いつく。適当な駐輪場へ自転車を停め、元来た道を戻り始めた。
 私のような人間は、日陰へ帰っていくのがよかろうと思うのだ。ひとり、陰鬱な満足から来る笑いを堪えられなかった。家には帰らない。病院へも戻るものか。家で待つ笑顔も、隣で寄り添う人の体温も、仲間の影も、息を吸い吐きするうちに薄れていく。彼らの引き留める手が届かない場所へ、早く行きたかった。
 日陰へやってくると、期待したように、私のこころは凍え死んだようだった。その死をまるで殺人者のように確かめて、私は満悦して日陰の中へ歩いて行った。先程の川縁のコンクリートまで下りていって、そこで蹲ってみたところで、不意に私の中で熱が興(おこ)った。死んだはずのこころが息を吹き返したのだ。その息吹はたちまち涙腺に火を点けた。涙が噴き出し、私は嗚咽を堪えられなかった。許されるなら、置き去りにされた子供か、赤子のように声をあげて泣きたかった。
 その感情の動きは、決して感動と云うべきあたたかなものではなかった。情けなさ。不甲斐なさ。惨めさ。逃げ出したところでどうしたって、私は〈そこ〉に戻ってくる。私はこの暗がりで、誰か迎えが来るのを待とうとしていたのだ。差し出してくれたその人の手にぬくもりに身をゆだねて、生涯安心していたい。私が望むのはそれだけだった。私はそれまで待とうと思った。
 死にたかった。けれども、生きていくしかないのだと感じた。
 私は小石を川へ放った。些細な水音を立てて沈んでいくそれに、私は投身する自身を重ね合わせようとしたが小石は小石に過ぎなかった。長い冬がもうすぐ来る。闇は変わらず続いていた。しかし、そのうち日が差すこともあるかもしれないと、信じてみることにした。
作品名:十一月二十七日 作家名:彩杜