苗 字
「537番のカードをお持ちの方〜」と銀行員が呼んだ。
私は正直ホッとする。以前、病院の受付で保険証にある本名を呼ばれ、周りの人から吹き出された事があったからだ。しかし・・・、
「新しく口座を開設されるのですね。それではマイナンバーカードをご提示ください。それからこちらの書類にご住所、氏名、年齢等、必要事項をお書き下さい」
そう言われ、首をうなだれた。
そうだった。今年から銀行でも何らかの書類作成時はマイナンバーカードを提示する事が義務になっていたのだ。
今日の銀行は特に混んでいる。そのせいで長く待たされている人々の苛立ちはピークに達しているのだ。先程も説明を繰り返し聞く老婦人に対し、わざと聞こえるように舌打ちをしている人がいた。
私は恐る恐る、窓口の受付にマイナンバーカードを渡した。その途端、それを受け取った女子行員が凍りついた。私のマイナンバーカードが異様だったからだ。
元々、私の名前は山田恵という、平凡な名前だった。しかも私が生まれた町では特に山田姓が多く、小学校の時には一クラスに八人もの山田さんがいた。
そのため、私はいつしか珍しい名前に憧れるようになっていて、将来は西園寺さんとか、武者小路さんとか、あるいはキャンベルさんのような外国の方と結婚し平凡な名前と決別しようと考えていた。
チャンスがやってきたのは大学を卒業後、外資系の会社に就職した時のこと。ここには、世界各国からやって来た珍しい名字を持つイケメンが大勢働いていたのだ。
中でもヨーロッパの小国、ランバート公国から日本支社に来ていたヴァレリー・アントウェルベン君とは趣味(鉄道写真撮影)も一緒で、キハだのモハだのと言い合っているうち、二人はいつしか恋人同士になって結婚の約束まで取り交わしていた。
ところが、入籍のために役所に行った時、私はアントウェルベン君の苗字が略式のもので、正式にはもっと長いものだと初めて気づいたのだった。
ランバート公国の慣習では正式な苗字は系譜を元に物語風に作られる。例えばアントウェルベンというのは、彼のお父であるベルギー人の苗字だが、その下にお母さんの苗字であるメルクーリが出てきて、二人はそれぞれどの村の出身で先祖には誰がいて、というように語られるのだ。
「だから君の名前はメグミ・アントンウェルベン・バウンドラック、ヤマダ・シュテルバイナ、ゲドホーリー・バイナルメルクーリ、サテッアイド・グリーシュナベウリン、トウト・トウイン・ゲネシュバイザー・バッシュ・バルイン、トファイザー・カウンドラ」ということになるよ」
ヴァレリー・アンツェルベン君が満面の笑みを浮かべてそう言った。
私には『 、や・ 』にどんな違いがあるのかは分からないものの、直感的にこれは面倒なことになるぞと思った。入籍を止めることも頭に浮かんだが、その時にはすでにお腹の中に二人の子供が宿っており、多少躊躇しながらも私は捺印をしたのだった。
「すみません。これはなんと書いてあるのでしょうか」
銀行員がマイナンバーにびっしりと書かれた正式な苗字を指差して言った。窓口に座る彼女も英語なら分かるだろうが、フランス語のアクサンシルコンフレクスや、キリル文字、ギリシャ文字等は読めないのだ。その上、日本のコンピューターはそのままでは、これらの文字を打ち込めない。
結局、一つ一つ説明し、フォントを呼び出して入力する方法を教えるしかなかった。後ろで待つ人々の苛立ちがもはや槍で突き刺すような敵意に変わった頃にようやく書類が完成。
私はバッグから、まるで『漢委奴国王印』のような巨大な銀行員を取り出して押した。
家に戻るとヴァレリーがA4の紙にびっしりと文字を書いていた。なんでも生まれてくる子供の名前を考えているのだという。
「男の子ならヨハンセン・ビュイック、サデスチャンフラクタクルジャスフィンラガー。女の子ならアナトリア・メラニー、ステファイド・コルビナ、ダルナーシャ・リンドというのはどうかと思うんだ」
そうだった・・・。ランバート人は苗字だけでなく正式な名前も長いのだ。
私はヴァレリーからペンと紙を取り上げると、男の子なら純(jun)、女の子なら唯(yui)! と書き込んだ。
( おしまい )
作品名:苗 字 作家名:おやまのポンポコリン