幸福な国行きのバスに乗って
どこにもありそうな公園近くのバス停にいた。
「さあ、急いで乗ってください」と中年太りの人の良さそうな車掌が勧める。
なぜバス停にいるのか分からなかった。ただ、あるとき気づいたら、いたのだ。
「さあ、あなたも、急いで」と車掌は少し怒ったように言った。
驚いて、「私も?」と聞き返した。
「あなたもですよ」
「どうして?」
「あなたの手の中をみてごらんなさい」
手を広げてみた。手の中に「幸福な国行き」という切符が入っていた。
「このバスは幸福な国に行きます」
「聞いたことはない。どこにあるんですか?」
「行けばわかりますよ」と車掌は微笑んだ。
「ところで、乗るんですか? 乗らないんですか?」
周りを見渡すと、そばにいた人たちは全員乗り込んでいる。
「乗ります」と思わず乗り込んだ。
全員が乗ったことを確認すると、運転手はバスを走らせた。
夕暮れだった。秋の日差しが当たりを茜色に染めている。バスはゆっくりと日の沈む方に向かって進む。
どうにも合点がいなかった。なぜ、自分はここにいるのか。どうしてバスの切符を買ったのか。だからといって、さほど疑問にも思わなかった。なぜなら、この頃、ぼけて昨日したことを忘れるのは頻繁にあったからである。切符もきっと何かの目的で、昨日あたり買ったに違いない。バスに乗って行けば、買った理由が分る。そんなふうに思ったのである。
周りを見ると、みな幸せそうな顔をしている。それで安心した。
隣に座る人のよさそうな老婆に話しかけた。
「幸福な国に行けば、何か良いことがあります?」と尋ねると、
「まあ、あなたは変な人ね」
「どうしてです?」
「じゃ、何のために、このバスに乗りました?」
「それが分からないのです」
すると、周りからどっと笑いが起こった。思わず自分もつられて笑った。笑った後、凄まじい睡魔に襲われ、眠りに落ちてしまった。
気づくと、バスは止まっており、車掌が肩を揺すっていた。
「起きましたか? みなさんはもう降りましたよ。もう、あなただけです。早く降りてください」
慌てて降りた。周りを見回した。不思議なところだった。そこは四方が高い壁に囲まれている広場だ。まるで城壁に囲まれているような感じである。
遠い昔に来たような懐かしさを感じた。
「ここは、どこです?」と聞こうとして、振り返ると、車掌もバスも消えていた。
広場では、歌っている者がいる。笑いながら、トランプしている者がいる。通り過ぎようとする者がいる。その一人を捕まえて、「教えてください。ここはどこです?」
「決まっているでしょう? 幸福な国の入り口ですよ」
「何が幸せなんですか?」
男は呆れたように、「なぜ、ここに来たか分かっていないんですか? あなた自身が望んだことなのに」
「どういう意味です?」
「ここは、もうじき死ぬ人間の魂か死を迎えるための場所なのです。壁が見えるでしょう。壁の向こうから、あなたを迎える者が現われたとき、あなたは壁の向こう側に行きます」
「向こう側? そこに行ったら……」
「二度と戻ることのない。死の世界に行きます」
「それが幸せの国?」
「そこでは、もう思い悩むことは何もありません。時間に追われて生きることもありません。時間の止まった世界にただ存在するだけです。苦しみや悲しみから解放されます。だから幸せなのです」
なぜか、恐ろしさに震えた。その震えはどうしょうもないほど大きくなって、思わず大声をあげた。
「嫌だ」と叫ぶと、壁が崩れて落ち、真っ暗になった。同時に眠なり、瞼が開かなくなる…どれほどの時間が経ったことか。必至に「助けてくれ!」と叫んでいる自分に気づいた。急に世界が明るくなった。
目の前に一人の少女が立っている。
「大丈夫ですか?」と声をかけた。
「ここは?」
少女は不思議な顔して、
「公園ですけど」
あたりを見回した。確かに公園だった。そしてベンチに腰を下ろしている。
「あなたは誰ですか?」
すると、少女は微笑んだ。
「こずえです」
「懐かしい名前だ」
「そうでしょう。だって、あなたの孫ですもの」
「おじいさん、今日はとても調子が良いみたいね。こっそりと病院を抜け出して、こんな遠くまで来て。みんな心配しているわ。どこに行っているのかと探し回っている。おじいちゃんは『幸せの国行きのバス』という童話を読んで、『自分も幸福な国に行く』と言って、みんな困らせていたのよ」
「そうか。そうだったのか。それで納得したよ。夢の中で、幸福な国に行ってきたよ。正確に言えば、その入り口だけど」
「本当、良かったわね」
「驚かないのか? それともバカにしているのか?」
「そんなふうに見える?」
少女は微笑んでいた。とても懐かしい笑みだ。その時、遠い昔、一緒に遊んだことを思い出し、思わず涙がこぼれてきた。
「いや、そんなふうに見えない」
「さあ、帰りましょう」
「どこへ? 」
「幸福な国に決まっているでしょ」
手を差しのべられた。その手をとった。温もりが伝わってきた。一緒に歩いた。ふと、前を見ると、壁がある。途方もない大きな壁だ。その時、気づいた。ここはバスで来た場所であることを。さらに、自分はずっと独身で孫などいないことも。声を発しようとしたが、声は出なかった。
壁の前に来た。壁に『チベットの死者の書』の一節が書かれている。
――高貴なる生まれの者よ。死が訪れました。この世を去るのはあなた一人ではありません。死は誰にも起こるのです。この世に望みや執着をもってはなりません。――
それを読んで、素直に理解できた。大きな穴が現われた。
「さあ、行きましょう」と少女は言った。
うなずいた。まるで何か操られるように歩いた。壁を越え、振り向いたとき、最初からこうなる運命だと悟ったとき、壁の中にできた大きな穴がゆっくりと閉じた。
作品名:幸福な国行きのバスに乗って 作家名:楡井英夫